XELOX、嫌な感覚!

手術後、たしか8週間以内に術後化学療法をはじめないといけなかったと記憶している。

僕の場合、合併症やら再入院やらで8週間ぎりぎりでの化学療法のスタートとなった。

化学療法を受ける前に、本日の僕の状態が万全か、必ず血液検査とH医師による診断が入る。

血液検査をし、1時間ほど経過しただろうか、受付で最初にもらったPHSに、H医師からの呼び出しベルがなった。

僕はH医師にXELOXを受けることを伝えた。

XELOXは、3週間に1回病院にきて、点滴を行い、その後2週間毎日2回飲み薬を飲み、最後の1週間は何もないお休み期間となりそれを8クール続ける。

なのですべての治療が終わるのは、3週間 x 8クールで24週間、つまり6ヶ月の長丁場の治療となる。

これからはじめる僕にとっては非常に長い道のりに思えた。

H医師からは、化学療法の枠が準備できるまで院内で待機するように言われ、1 時間ほどで化学療法の部屋に呼ばれた。

ちなみに、診察後1時間後に呼ばれるのは良い方で、日によっては2時間くらい待たされたこともあった。

化学療法の部屋の前には、消毒液が置いてあり、必ず入室前に手を消毒しないといけない。

化学療法を受けている患者さんは免疫が落ちているため、病気に感染しやすいのだ。

その日、部屋に入ると、看護師さんたちがせわしく動き回っていて、受付には誰もいなかった。

僕は受付の奥で何やら作業している看護師さんに声をかけたが、「ちょっと待っててください。」といわれてしばらくの間、受付のソファーで放置されていた。

それくらいみなさんフル稼働して、患者さんの対応に当たっていた。

20分くらい経っただろうか、一人の看護師さんが僕に声をかけてくれ、化学療法にあたっての注意事項などの説明をしてくれた。

渡された書類に一通りサインすると、受付の真正面にあるカーテンをめくり、化学療法の治療スペースに案内された。

飛行機のビジネスクラスのようなリクライニングシートとテレビが、網目のように張り巡らされ設置してある。

意外だったのは、治療を受けている患者さんは非常にリラックスしていて、おのおのテレビや携帯を見てくつろいでいるように見えることだった。

さて、今回の点滴のメインはオキサリプラチンというお薬なのだが、点滴は2段階に分かれている。

最初の30分は、吐き気予防の点滴を打たれる、これが30分くらい。それからメインのオキサリプラチンを2時間程度受けるのだ。

最後に生食液でチューブに残ったオキサリプラチンを身体の中に流し込み終了だ。

僕が「ある意味で」ラッキーだったなと思ったのは、CVポートが鎖骨部分に埋めてあったことだ。

これにより、化学療法の点滴がスムーズだった。

というのも、オキサリプラチンは血管痛が結構ひどくでることがあるらしい。普段使用する腕の血管だと、血管が細くて痛みが出やすいとのことだ。

治療室には腕に毛布や湯たんぽを当てている患者さんがちらほらいたのだけど、これは血管痛を和らげるための処置らしい。

CVポートを入れている僕は、心臓近くのぶっとい血管に管が入っているためその痛みが出ないというわけ。

術後化学療法を受けるのに、CVポートをしている患者はレアである。なぜ僕がCVポートをしているか、はこちらをご覧ください。

さて、リクライニングシートの裏にある荷物入れにバッグを入れ、看護師さんがきびきびと点滴の準備をしてくれた。

吐き気止めの点滴が滞りなく行われ、ついにオキサリプラチンが注入される番がきた。

僕は少し緊張した。

「それではいれますよー。」看護師さんの声とともに、点滴が始まった。

少し冷たい感覚を鎖骨の下で感じる。

痛みはといったものは全くない。ただ冷たい液体が、体に流しこまれている感覚はある。

そして、武者震いのように体の中かがぶるぶるっと震える、感覚が襲ってきた。

実際に体は震えてはいないのだけど、体全身が身震いするような感覚。

この感覚、最初だけではなく、これから毎回オキサリプラチンを注入されるたびにやってきた。

最初だけではなく、点滴をうけている間、何回か襲ってくる、いやーな感じ。

身体拒否反応を示している、そんな感じ。

化学療法の時間を過ごすための道具を準備してきていなかった僕は、オキサリプラチンの嫌な感覚を時折全身で感じながらも、うとうと寝てしまった。

気付いたら、点滴は終わっていた。

ロビーでは、兄が車で迎えにきてくれた。病院に来たのが12時くらいなのだが、外はもうすっかり暗くなっていた。

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化学療法の医師

 1月の中旬になり、僕は再び病院へ外来で訪れた。

化学療法の医師と初めてご対面するのだ。

事前に調べた情報だと、その医師はこの病院の「消化器内科の医師」というだけで何かしらのタイトルがあるわけではなかった。

文句があるわけではないが、主治医であるO医師も、手術で担当してくれた麻酔技師も歴戦の勇士だったので、気にはなった。

結果的には、化学療法の医師もすごくいい医師だった。

 

 入院患者としてではなく訪れた病院はどこか新鮮で、だけど懐かしさを感じさせた。

特に玄関をくぐる際、僕はセカンドオピニオンで初めてこの病院を訪れたことを思い出した。

そう、ここから始まったんだ。そういう感覚。

入院していた頃とは違い、慣れない外来の受付をしないといけない。

受付を機械で済ませ、呼び出し用のベルを受けとる。次に、どうやら採血に行かないといけないらしい。ちなみにこれから外来に訪れるたびにまずは採血、というのがルーティンとなる。

注射は嫌いだ。だけど、入院中毎日注射を打たれていたので、もう慣れっこである。採血くらいであれば序の口。インフルエンザ予防のような筋肉注射ですらそこまで怖くはない。

採血後、程なく呼び出しのベルがけたたましくなった。

化学療法の医師からの呼び出しだ。

以前O医師からセカンドオピニオンを受けた時の向かい側の部屋に案内された。

ノックをして部屋開けると、そこには眼鏡をかけた30代半ばくらいの青年がいた。

おじさんというのには少し若すぎるが、若年というわけでもない。同い年か少し先輩かな、という感じ。

あまり目を合わせて人と話すタイプではないのは、最初の二言三言ですぐにわかった。

しかし、話し方が丁寧で内容も非常に分かりやすい医師だった。この医師H医師としよう。

この日僕はこのH医師から、術後化学療法に関しての基本的な説明を受けた。

その中で最も衝撃的だったのが、大腸がんで使われる抗がん剤は、髪の毛が抜けない、ということだった。

僕は思わず聞き返してしまった。

実は、抗がん剤=髪の毛が抜けるは世間に定着した一つのイメージで、すべての抗がん剤に当てはまるわけではない。

これは意外とみんな勘違いしているように思う、

私の友人はもう先回りして、髪の毛がなくなった時ように、帽子を購入していてくれていたくらいだ。

僕自身、事前に化学療法に関して予習してきたはずだったのだが、思い込みの力が勝っていたみたいだ。

さて、化学療法によって僕が少しだけ不安になっていた要素が、大腸癌の代表的な抗がん剤の副作用の一つである末端神経症。

大腸がん術後補助化学療法だと、僕のいた病院だと二つの選択肢があった。

一つはFOLFOX(フォルフォックス)、もう一つはXELOX (ゼロックス)というもの。

どうやら使用する複数の薬名の頭の文字をとり組み合わせ、こういったアルファベットの名前になっているらしい。

この2つはお薬の組み合わせが違う。しかし共通している薬が1つある、それが両方の名前の後ろに入っているOXというお薬。両方の治療のベースとなる薬だ。

これはOxaliplatin(オキサリプラチン)という名前の薬剤、そしてこの薬剤に共通している副作用の一つに「末端神経症」というものがある。

以前もコラムに書いたが、末端神経症には症状が二つあって、

一つめは、冷たいものに手足が触れると痺れを感じる急性のもの、それから手足の先が常にジンジンと痺れている感覚を覚える慢性のものだ。

H医師からこの末端神経症に関して説明を受けたのだが、

どうやら指先の繊細な感覚をお仕事にしているような職人さんや、楽器奏者のかたのなかには、この慢性的な痺れを嫌い、化学療法をしない、もしくは他の薬剤を使用するという選択をするらしい。

なぜなら、この慢性の痺れ、いつ治るのか誰にもわからないらしい。万が一長い期間痺れを感じる場合、職業によっては復帰することが難しいということ、なのだ。

僕の職業にはまったく関係のない話ではあったが、手足の痺れが残るっていうのはすごくいやだった。

FOLFOXか、XELOXか。選ぶのは患者自身。

どちらも ”術後化学療法においては” 効果効能は変わらないので、あとは患者のライフスタイルに合わせて選んでね、という病院のスタンス。

僕は事前に調べた情報をもとにFOLFOXにしようと思っていた。というのも、FOLFOXのほうが1回におけるオキサリプラチンの投与量が少なかったからだ。

投与量が少ないということは、末端神経症が残る確率も低くなるだろうと考えた。でもそれは間違いだった。

H医師の話によると、

FOLFOXは1回のオキサリプラチンの投与量こそ少ないが、XELOXよりも投与回数が多いので全体量はほぼ変わらないのである。

FOLFOXとXELOXどちらも、6ヶ月間の治療となるのだが、XELOXは3週間に1度の投与に対し、FOLFOXは2週間に1度の投与。

しかもFOLFOXは病院での薬の点滴投与終了後、約46時間の間持続点滴として身体に携帯型の薬の注入機をつけて生活する必要性がある。

一方、XELOXは病院での薬の点滴投与後、飲み薬を2週間飲む必要があるが、通院の頻度と注入機を携帯型の注入機をつけて生活する煩わしさを考え、

僕はXELOXを選択することにした。

とはいえ、この日はいきなり薬の投与はせず、一旦考える時間を与えられ、3日後の治療時にどちらにするか決めてくることになったのだった。

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退院、そして残されたモノたち

「僕は粘液癌だったんだ!」

そう誰かに話をしても反応は薄い。

そりゃそうだ。周りの人にしてみれば、とにかく今何もなくて無事って状態が良かったって感じなんだろう。

当事者からしてみると、腺腫と粘液癌ではだいぶ違う印象なんだけど、その感覚を共有するのは難しい。

病理検査の結果を聞いた次の日、主治医であるO医師のアシスタントであるK医師が顔を出してくれた。

「病理検査の結果聞いた?良かったですね。」と、ボソッと話しかけてきた。

彼が「良かった」と言っているのは、ステージ2だったことを指しているのだけど、粘液癌のことに関しては触れてこなかった。

僕は、粘液癌は恐るるにあらず、と受け取ることにした。

大晦日には退院して、実家に戻ることができた

5日ほどの入院であった。結局、何が原因で苦しんでいたのかはわからなかった。

そういえば退院時にすごく残念だったことがある。

僕は前回の入院で十二指腸をヤッてしまったことにより、胃ろうと腸ろうと呼ばれる、2本の管がお腹から生えたままになっている。

何もなければ、その管を年末の外来時に主治医のO医師に抜いてもらう予定だった。

しかしその外来の前に、”何かが起きてしまった”ので、胃ろうと腸ろうをつけたまま再度退院することになった。

O医師と再会を果たす2月の定期検診まで管を抜くことができないことになってしまった。

この胃ろうと腸ろうだけど、生活に若干の支障をきたす。カジュアルにいえば、うざったい。

まず、お腹から2本の管がだらーっと垂れているのだが、これを医療用テープで固定しないといけない。

この医療用テープにより皮膚が痒くなるのである。

毎回貼るたびに微妙に位置を変えるのだけど、粘着物が皮膚に残って痒い。

そして、毎回お風呂に入る際、エアウォールという面の広いビニールテープのようなもので、管が生えているお腹の部分を覆う必要がある。

管はお腹からそのまま飛び出てきているので、カバーをしないとお腹にお湯が入ってしまうのだろうか、とにかく濡らしてはいけない。

お腹からそのまま生えてきている管は、針金みたいなものでお腹と管を固定してあるのだけど、こんな雑な留め方で良いのだろうかと不安になる代物なのだ。

(話はそれるが、エアテープも医療用テープも看護師さんが内緒でたくさんくれたので助かった。)

最後に、左のお腹を横にしてて眠りずらい。

管の先っぽにはプラスチックの蓋がついているのだけど、これが横っ腹にゴリゴリと当たるのだ。なので上か右にしか選択肢がないわけである。

僕は左派だったので、難儀した。

先ほどプラスチックの蓋といったが、驚くべきことに専用の蓋というわけではない。

胃ろうと腸ろうをお持ち帰りするケースというのはあまりないのであろうか、最初に退院する際、O医師のアシスタントであるK医師が何かの蓋を持ってきて、はめ込んで、「よし、ハマった。」と一言。

その1時間後くらいに、怪訝そうな顔をした看護師2名が僕の部屋を訪れ、蓋を確認し、「あー、確かにハマってるわね。」みたいなことを言って去っていた。

その程度の蓋なのだ。

なので、2度ほど小腸とつながっている管の蓋が外れて、小腸の内容物がそのまま世に出てしまったことがあった。

ほぼ吐瀉物である。

そういった感じで、2度目の退院後も1ヶ月以上、管という異物を抱えたまま過ごしたのであった。

大腸がん持ちという状態から一旦解放されたことで、こういう些細なことがうざったく感じ始めたということなのだろう。

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コラム:大腸粘液癌について

大腸の粘液癌に関して、情報は少ない。

特に、日本語での情報は少ない。

例えばGoogleで、「大腸 粘液がん」と検索して、最初に目につく情報として使えるものは、”大腸粘液癌の検討”という論文くらい。

この論文は1982年発行とかなり昔の情報であるため、今となってはそんなに有用度の高い情報とは言いづらい。

そして何よりもなかなか絶望的なことが記載されている。

なので僕はGoogle Scholarという論文検索で調べることにした。

「大腸 粘液癌」や「mucinous colon cancer」と入力すると、大量に論文(情報)がでてくる。

僕として、情報のインプットに役立ったのは英語の論文だ。日本を含め全世界の研究が集約されているという点で、最新の症例や研究に多く触れることができた(もちろん100%理解できてるわけではないけど)。

世界的に見ても患者数が少ないこのがん、当然日本だけに絞ってしまうと統計的な研究ができるほど症例数が多くないのだろう。

大したことは書いてないですが、Google Scholarで見つけた論文の読み方のコツに関してはこちらをご覧ください。

ちなみに各論文はあくまで一研究による結果なので、その研究結果が全ての答えというわけではない。

結局は複数の論文を読んで自分なりに答えを整理していく必要がある。

さて、粘液癌について検索して、僕のブログにたどり着く人もいるだろうから、最初に僕なりに着地したポジティブな結論を書こうと思う。

当時(2017年)読んで理解していた内容と、今の状況は違うかもしれないけど(きっともっと良くなっている!)、

“粘液癌だからといって予後が悪いとは限らない。”

これが当時の僕が行き着いた結論。

素人なので理解が違うところもあるかもしれないし、僕の解釈のさじ加減ということもあるだろうけど、僕はそう考えることができた。

ここからは順を追って、粘液癌について記載していく。

まず粘液癌の特徴として、次のようなものがある。

粘液癌は、

  • 世界の大腸がんの中の3.9% – 19% の割合で存在する(国によってまばらなのでレンジが広いみたいだ) 
  • 日本の大腸がんの中だと 2.7% – 6.9% (日本だと特に稀)  
  • 上行結腸にできやすい
  • がんのサイズが通常の腺腫よりも大きいことが多い
  • がんが進行している患者が比較的多い
  • 抗がん剤が比較的効きづらい
  • MSI陽性(MSI-H)が比較的多い

MSI陽性とは、もともとがん細胞は正常な細胞のバグでできたモノだけど、そのバグが通常よりも激しいモノ。(誤解をおそれず言えば)

といったところだ。

そして僕の理解だと、粘液癌=予後の悪い、と必ずしもならない。

まず、そもそも研究結果の中には粘液癌という要素だけが、普通の大腸がんと比較して生存率が低いという統計的な優位性は見られない、というものが見られる。(同じく、粘液癌は予後が悪いという統計的優位のある研究もあるのでどっちが正しいかというのはわからないが、結論は出ていない。)

そして、粘液癌は、なぜか上行結腸にできることが多い。(僕もそうだったように。)

上行結腸にできるということは症状が出づらくて、がんの発見が遅れ、結果そこそこな進行がんとなってから発見されることが多い。

なので、通常のがんよりも予後が悪く見える。

(もちろん大部分の研究の中では腺腫と粘液癌を、同じステージで比較しているのだけど、同じステージ間でも進達度や大きさなどに細かな差異があるはずだ、と考える。)

さらにいえば、MSI陽性の大腸がん(粘液癌含)は、普通の大腸がんに使用される抗がん剤が効きづらいのだが、最近出て来た免疫チェックポイント阻害薬に高い効果が見られるという良いニュースもある。

このニュースにもあるように、日本でもMSI-Hの大腸がんに免疫チェックポイント阻害薬が適用されつつあるのである。

つまり粘液癌の予後が悪いとされていたのは、そもそも上行結腸に発見がしづらく発見されるときにはそこそこ進行しているということ、従来の抗がん剤が効きづらいことの2点に集約される(と考えている)。

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コラム:病理検査の結果

そういえば、粘液癌が衝撃的すぎて、病理診断結果の検査結果を本編の中に記載するのを忘れてしまった。

実は粘液癌以外にも、もう一つ忘れてはいけない点があったのだ。

まずはがんの全体感から話を使用。

僕のがん(粘液癌)の大きさは、50mm x 100mm という大きさ。多分普通の腺腫に比べると大きい。

写真も見せてもらったが、ウツボのヒラキのようになっているピンク色の細胞の一部分に、びっしりと、カサブタになりきれなかったような傷跡のようなが右端から左端まで帯をなしてくっついていた。

こんもりと盛り上がったその物体の表面には赤いブツブツがあり、正常さを微塵も感じない。

どんな素人が見ても一見して、明らかにワルい、ということがわかる。それくらい顔つきが悪い。

そんな大きながんが、僕の大腸の一部分をせき止めていたのだ。

そして、リンパへの転移だが、ステージ2なので、切除した33個のリンパ節への転移は認められていない。

ちなみに手術中3個のリンパ節(おそらく大腸周辺にあったもの)を迅速組織診断していたようなので、主治医のO医師なんとなくリンパ節への転移はなさそうなことは手術中わかっていたのだろう。

リンパ管への侵襲も浅く(ly1)、静脈への侵襲も認められていない。なので、転移の可能性も低いのではないかと思っている。

ただ、病理診断の説明の際、最後まで主治医のO医師から切り出すことはなかったある記述が僕を驚かせた。

それは一番上の診断結果の項目に書いてあった。

“Double cancer”

 僕はこの記述を最初に見たとき理解できなかったが、少し目を下に移動させていくと、要所要所に”多発癌”の記述がある。

そう、どうやら僕の大腸にはもう一つ大腸がんがあったのである。

それに対するO医師の反応はかなりあっさりしたものだった。

僕「僕って癌がもう一つあったんですか?」

O医師「あー、そうみたいだね。」

といった具合に、特段何も反応はなく、大腸の写真を見ながら、あれーどこにあるんだっけ、と医師がもわからないほど微小ながんであるようだった。

ステージ1、10mm x 10mm 程度の腺腫。

どうやら、大腸の多発がんは稀だが、予後に関してはそんなに心配することはないらしい。

僕に余計な心配をさせまいとするO医師の気遣いなのかもしれないが、正直「粘液癌」に頭を取られていた僕は多発がんを心配する余裕もなかった。

なので、当時はO医師の言葉を信じることにした。

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新たな脅威

O医師との話が終わり、病室へと戻った僕の頭はフル回転を始めた。

「粘液癌」

初めて聞くワードであったし、とても凶悪そうな名前に感じる。

そういえば、T病院に転院した直後、一人の医師がお腹を触って「あれ、しこりがないですね。」って言っていた。

そう僕のがんは大きかったのに、お腹にしこりがなかったのである。これは粘液化していたからであろうか。

そんなことを思い出しながら僕はウェブの検索を始めた。

最初にウェブ検索して出てきた資料は忘れもしない。これだった。

“大腸粘液癌の検討”

論文を読むときは最初と最後をまずざっと読む癖を持っているのだが、最後の結論に衝撃的な言葉が綴ってあった。

“ステージ2の症例についての5年生存率は大腸癌症例の71.7%に対し、粘液癌は39.0%と悪い”

頭がクラクラした。 

ステージ3から、ステージ2になって多少浮かれていた僕を、奈落に突き落とす数字である。

少し冷静になり論文をしっかり読んでみる。すると、1982年に発表された論文だということに気付き、一旦気持ちが落ち着いた。

そう、がん治療の進歩は目覚ましい。

最新医療に触れなければ、意味がないのだ。

日本語でウェブ検索していてもいまいちパリッとした情報が出てこない。僕は

Google Scholarで英語の論文を検索しはじめた。

すると、粘液癌についていくつかのことがわかってきた。

上行結腸にできやすい、若年に多い、通常の大腸がんよりも大きい・・・・。

こ・・・これは。

完全に僕のがんのことを指している。状況証拠だけ見れば、僕のがんは手術前から粘液癌を疑っていいレベルであった。

そして発症率は全体の10%前後と高くない稀ながんということもわかった。

調べていくと恐ろしいことが書いてあった。どうやら粘液癌は通常用いれらる抗がん剤が効きにくいという性質があるらしい※。

これには冷や汗をかかずにはいられない。

なぜなら最初のF病院では、大腸がんを切除することができないから、抗がん剤で小さくしてから切除を行う、という方針が立てられていたからだ。

あのままF病院にいたら、抗がん剤が効かないまま月日が流れ、もっと大変な状況になっていたかもしれないのである。

そう思うと寒気がした。

※この時点ではわからなかったが、粘液癌に対し奏効率の高い薬も出てきているので粘液癌の読者は安心してほしい。

その日、何時まで起きていただろうか。眠さ限界まで論文を読み耽った僕は、とりあえず3つの結論を得た。

まず、粘液癌における研究は世界各地でされているものの、予後が悪いか悪くないかという研究において、はっきりとした答えが出ていないこと。

そして粘液癌の予後が悪いと思われているのは、粘液癌の進行が他のがんよりも早くある程度進行した状態で見つかるからである、ということ。

あと、粘液癌はそもそもがん全体の50%以上が粘液化している様を指す、僕のがんの粘液化はギリギリ50%だった。

病理検査の書類にも、「粘液結節を形成した部分が半分ほどまで認められ粘液癌としましたが、通常の部分もかなり見られます。」といった、病理診断師も「うーん」と唸りながら書いたであろう文章が記載されていた。

なので、多分そんなに粘液粘液(ねんえきねんえき)していないということにした。

その日、僕は比較的安眠したことを覚えている。

敵を知ったことと、持ち前の前向き思考で、恐怖は和らいだのだと思う。

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幸い中の不幸

2週間で病院へとんぼ帰りした僕は、荒れた。

恥ずかしいくらい不貞腐れた。

30過ぎの大人が、注射を嫌がる子供のように、暴れた。

あの時は看護師さんに迷惑をかけたと思う。

直接罵声を浴びせた、ということはなかったけど、あきらかに不機嫌な態度。

入院に必要なセットアップをしたのち、看護師さんが病室からでていく。僕は近くにあったティッシュ箱を床へ叩きつけた。

腹立たしかったのは、個室しか空いていなくてまた個室代金1日3万5千円を支払わないといけないということもあった。

僕は不機嫌な態度のまま看護師さんに部屋の変更を要求した。不機嫌な患者対応ということで婦長さんが駆けつけた。婦長さんは最善を尽くすことを約束してくれた。

なんて嫌な患者なんだ。

次の日の朝、僕は1ヶ月で3回目の胃カメラを飲んだ。

医師たちは、十二指腸穿孔が回復した際に、十二指腸がひきつり、胃の出口を狭めてしまった、という仮説を立てていた。
胃と十二指腸のつなぎ目が狭くなったところに、大量の食べ物が入ってきて、胃が詰まってしまった、ということだ。

しかし、胃カメラの結果、そういった所見は見つからなかった。

さて、不機嫌患者の噂を聞きつけてか、胃カメラの結果がで出た後、僕の主治医であるO医師が病室へ訪れてくれた。
そのO医師からなんとも耳を疑うような言葉が飛び出た。

「いやー、よかったですね。場合によっては胃を全摘しないといけないかと思ってたんですよ。」

びっくりした僕は、その後O医師が何を話したのかいまいち覚えていない。

今思えば、正直胃を全摘するなんて大げさなわけで。

僕が暴れ倒していたから、黙らせようとしてそういうことを言ったのだと思う。

次の日の朝、僕の気持ちは幾分落ち着いていた。

婦長さんが午前中に部屋を訪ねてくれて、午後から4人部屋へ移動させてくれることになった。
昨日までの自分を思い出すとなんだか照れくさかったが、これで心はさらに落ち着いた。

窓側だったので、1日5000円の支払いは発生するのだけど、個室に比べればマシだ。

さて、実は退院して2週間後に外来で病院に赴き、正式に病理検査の結果と今後の治療方針を話すことになっていた。
入院をしていなければ、3−4日後にO医師と、今後の治療方針について話すことになっていたのだが、入院中にやってしまおうという話になった。

ステージ2となった今、術後化学療法はするのかしないのか、話の焦点はそこだろうな、と思っていた。僕個人としては、術後化学療法をする気でここ1ヶ月過ごしていたし、肺に残る小結節ががんではないと決まったわけではない。
特に何か期待したわけでもなく、特に何かに怯えるわけでもなく、ベットの上でO医師からの呼び出しを待っていた。

手術前に両親と兄と一緒に手術の方針を聞いた部屋と同じ、2畳くらいの部屋に通される。入院棟にある事務室なのだろう。

部屋に入るとO医師は僕の体調のことを気遣ってくれた。この時、僕の体調はすこぶる良く、2日前の苦しみは吹き飛んでいた。
「結局なんだったんでしょうか?うーん。」と唸るO医師。

僕は、その当時は流行っていたノロウィルスかもしれない可能性を伝えた。というのも、病院に運び込まれた日、実家に遊びに来ていた次男夫婦も見事に食中毒のような症状を呈していたのであったから。

とはいえ、ノロウイルスは体から出てしまうと症状が治まる(個人調べ)ので、今となっては原因はわからないが・・・。

O医師は僕の素人予想に、「あー、そう。」と決して冷たくない温度で反応を示したが、それ以上その件に関して話すことはなかった。

O医師は本題へと切り出した、「さて、退院する前にステージ2だってことは伝えたのですが、実は、」

僕の胸はドキッとした。

O医師「病理検査の結果、がんは漿膜下層、つまり漿膜ギリギリのところまでで進行が止まっていました。これはラッキーでした。」

※漿膜(しょうまく)= 大腸の一番外側にある膜。漿膜を超えるとつまり、大腸の外側の臓器に浸潤する可能性が高くなる。

O医師「ただ、がんが少し特殊ながんで、少しタチ悪めなんですよね。」

僕「タチ悪め?」

O医師「ムシナス(Muchinous)、粘液癌と呼ばれるもので、一般的に予後が少しだけ普通の腺腫より悪いんですよ。」

O医師が続ける。「なので、ステージ2なんですけど、術後の化学療法はやっておいたほうがいいと思うんですよね。」

僕「はい、術後化学療法に関しては、やると決めていたので問題ないです。」
と冷静に答えたものの、冷静さとは裏腹に僕の頭の中は新しい敵の出現に大混乱を起こしていた。

今すぐ部屋に戻って、粘液癌のことを調べたい!と体がそわそわし出していた。

そんな僕の混乱状態に気づくわけもなくO医師、化学療法の手続きを進めた。

O医師は外科医なので、化学療法は内科の医師に患者を引き渡すのである。

O医師はパソコンの画面に顔を向け、化学療法の先生に引き継ぐ内容を入力し始めた。僕もその画面に目を向けた。

どうやら先ずは化学療法の担当医を選ぶらしい。

O医師は、なんとその病院の化学療法の部長を指名してくれようとしているのがわかった。
(事前の僕のリサーチで病院のホームページに乗っていた、その人である。)

なんとも心強い、と思いきややはりその医師は忙しくスケジュールが空いていなかった。

そのあと、スケジュールの空いている医師を(恐らく)適当にピックアップした。少し不安になった。

その後も沈黙の中、入力している画面を見ていると、僕のがんの所見の欄に、

上行結腸がん

ステージ2

粘液癌

“リスク高”

と記載していた。

僕の胸はまたドキッとした。

さっきまで、”少し”を形容詞として乱発していたO医師が、違う医師への引き継ぎの際、”リスク高”と伝えているのである。
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コラム:がんであることを公表すること

ここ最近、気がかりだったことがあった。

2018年、イトキンさん、山本KIDさん、中尾翔太さん、若くしてがんで亡くなられた。

他人事とは思えない僕からすれば、本当に本当に残念でならない。

彼らと年齢が近いということもあり、人生の非情さを感じざるを得ない。

一方で、彼らのニュースを見た、現在進行形でがんと闘っている方々はどのように感じるのだろう。

僕の経験上(有名人ではないので状況は違うが)がんを世間に公表することっていうのは、「これから闘うぞ」っていう覚悟とその意思表示だと思っている。

仕事上迷惑をかけるから周りの人に自分の状態を知らせておくということもあるのだろうけど、自分自身に発破をかける意味合いもあると僕は思う。

そして、がん公表後、彼らが亡くなった。彼らの死を悼みながらも、僕は心配になった。

現在がんで闘病している人たちが、希望の光を失いやしないか、不安になりはしないか。

社会的影響力が大きく、いままで闘病者の心の支えになっていたそんな彼らがいなくなる反動は小さくないと思ったのだ。

がんは統計上基本的には生存率があがっている。

その事実を知ってはいても目の前の大きなニュースによって人々の中に、そういう印象はつくられてしまう。

がん患者以外の人々、その人たちが、がんはやはり不治の病だ、と思いやしないかと、僕は心配した。

でも杞憂だった。

僕が嬉しかったのは、いままでがんを公表してこなかった有名人が続々と声を挙げてきてくれたからだ。

ドクター中松さん、加藤登紀子さん、高須院長、皆んなちょっと歳食ってるけど、やはりこういう声はがん患者に勇気を与えると思う。

がんと向き合うために、がんになっても希望はあるって、がん患者以外のみんなにも思ってもらいたい。

がんは治る、共存できる、そんな声をどんどんあげていきたいですね。

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帰宅して

車から見える町並みは華やかで、赤と緑と白と青の光がキラキラ揺れている。

車が銀座に差し掛かったところで初音ミクのデザインを施た痛車が横を通り過ぎる。

車のリアウィンドウに設置したモニターで初音ミクが踊っている。

“わざわざ都心にまで痛車を乗り付けているのは[クリスマスに一人]という鬱憤を晴らすためなのだろうか”

“わざわざ都心までと思ったが別に遠くから来たと決めつけるのはおかしいなナンバープレートを確認しようああもう行ってしまった”

僕は車から見える景色を眺めどうでもいいことを考えながらなんとかこの苦しさから逃げようとしていた。長兄の運転している車は2週間前に退院した病院へと向かっている。

時間を少し巻き戻す。

 

 

退院前に聞いた食事療法師さんからの話。”基本的に食べ物の制限はないが腹8分目くらいの食事を心がけること”、とアドバイスを受けたことをすっかり無視し、入院中の鬱憤を晴らすかのように、鶏肉、シャケ、うどん、けんちん汁等々、僕はお腹いっぱい食事をとり続けた。

大腸が自らを善玉菌でいっぱいにしたいのか、豆乳とヨーグルトに対しての欲求が激しく、毎日800グラムのヨーグルト、500mlの豆乳を摂取していた。

当然今まで病院でお腹に優しい消化物に慣れ親しんでいた僕の胃は、久々の重労働にびっくりしたのであろう。胃に刺さっている管、胃ろうが抜けてしまうかというほどに、管が体の中から押し出されることもあった。

それはそれは怖いくらい押し出されて、管と皮膚を繋いでいる糸が引きちぎれてしまうのでは、と思うくらい激しく動いた。

そんな食生活を送っていたので、退院4日経つ頃には、食欲を失っていた。今思えば、胃腸が疲れ切ってしまったのだろうと思う。

ちなみに結局僕の感覚だと、胃腸が完全に機能を回復したのは(食欲が以前のレベルに戻ったのは)術後半年後くらい要したと思う。

食べたいけど、食欲がわかない。だけどとりあえず食べるという生活を送っていた。そしてクリスマス、事件は起きた。

その日は朝から具合が悪く、長男が買ってきてくれたペットボトルのルイボスティを飲みながら一日中2階のベッドで横になっていた。1階では、次男夫婦が連れてきた甥と姪の叫び声が時折聞こえてくる。

夜になり、強い吐き気を感じ、僕は飛び起きた。僕は便器を抱えながら悶え、嘔吐した。

これはさすがに病院へもどらねばなるまい。

こうした経緯で、前段につながるわけだ。

兄と母親に連れられ、病院に着いたのは、8時くらいだろうか。2016年のクリスマスは日曜日だということもあり、病院はもぬけの殻かというほど人の気配がなかった。

裏口から入ると、入り口近くの待合室に腰掛け、呼ばれるのを待った。この時苦しさはある程度収まっていたと思う。

30分ほど経過したであろうか、看護師さんに声をかけられ、血液検査とCT検査をを行う。

検査が終わると、ベッドが用意されていてそこに横になった。兄と母親が横で心配そうな顔をしている。

ただ、僕としてはあまり深刻に捉えてなかった。多分そんな大事な事態には陥ってないだろうな、というのが僕の感覚だった。まあ、大腸がんステージ4を覚悟していた経験もあるのと、気持ち悪かったり嘔吐することって大腸がんの症状とは関係ないというのは分かっていたから。

素人ながら想像できる最悪は手術した十二指腸がなんらかの原因で詰まったか、ということなのだけど、それくらい昨今の医療進歩がなとかしてくれるだろう、そう思っていた。

ベッドで胃の膨満感を我慢しながら白い天井を見上げていると、隣のベッドから若い男二人の話し声が聞こえてくる。

どうやら二人は学生で茨城県から車で東京に出てきていたらしいのだが、夜中に片割れが腹痛に襲われ緊急搬送され、僕の隣のベッドで寝かされているらしい。

彼らの話を聞く限り、虫垂炎(盲腸)の疑いがあるらしいのだが、今日中に車で茨城へ帰らないといけないらしかった。

しばらくすると医師が彼らの元に訪れ、地元の病院へ行くことを約束させ家へ返した。

医師はその足で僕の元へ訪れた。カーテンを開くと入院時にお世話になっていたS医師の姿がそこにはあった。O医師のチームメンバーでまだこのブログには登場していなかったのだが、時折病室に顔を出してくれる30代そこそこで、身長180センチ程度の爽やかナイスガイである。

彼に一通り自分の症状を話をし、彼はまず胃の膨満感を取るべく、胃ろうから胃の内容物を抜く作業に入った。胃ろうの蓋を取りチューブを通すとでるわでるわ、僕がこの病院に着くまでに飲んでいたお茶が500ml程度。

そう、僕が胃の気持ち悪さをとるために飲んでいたお茶は胃でスタックしており、まったく小腸に流れていっていなかったのである。

「これは苦しいわけだ。」とS医師。

「十二指腸のこともあるから今日は入院していっってもらったほうがいい。ベッドがあるかどうかいまっきているから少し待つように。」

僕は目の前が暗くなった。あの息苦しい入院生活にまた戻れというのか。

もうこの病室には帰ってくるまい。

およそ10日前にたてた誓いははかなくも消え去ったのだった。

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コラム:しばらく更新が止まってしまった

新しい仕事が始まり、バタバタしているうちに最後の更新から3ヶ月くらいが経過してしまった。

僕は相変わらず元気です。

落ち着いたら、抗がん剤治療のこととかリンチ症のこととかを書こうと思っている。

ちなみに、抗がん剤XELOX治療で出現した末端神経症なのだけど、治療が終わってもう1年経とうとしているのに、微妙に指先に痺れが残っている。

徐々に徐々に消えていってるのだけど、完全になくなるのはまだ先になりそうだ。生活には全く支障がないので、あまり気にしてはいない。

そういえば、仕事をバリバリし始めて、発見があった。

大腸がん発見の2年くらい前から、仕事でストレスを感じると大量の寝汗をかいたり、動悸を起こすことがあった。それがなくなった。

多分、当時は大腸がんによって自律神経をおかされていたんだと思う。

あと、疲れにくくなったとも思う。以前は大腸がんによる出血で貧血していたと思うので、その分身体が楽になっている。

今は前よりも強いストレスにも強くなったし、仕事のパフォーマンスもあがっていてうれしい。

これは発見だ。

いや、これが普通なんだけど。

普通がうれしい。

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