がんと向き合う方法:中編

LINEでメッセージをくれた従姉妹。

いつもの明るいトーンとは打って変わり、LINEのメッセージはシリアスである。それも当然か。

こういう状況なので僕の両親に本来であれば許可をとらないといけないだろうけど、どうしても伝えたいことがあるので、と断りをいれて彼女は僕にメッセージを打ち始めた。

彼女の母親も昨年がんに罹患していたこと。ステージ4であったこと。高齢の両親に代わり、自分でがんに関する情報を集めたこと。良い先生を見つけたこと。そして情報収集の甲斐もあり、抗がん剤治療で母親のがんが寛解したこと。

そして最後に一冊の本を紹介してくれた。

従姉妹からのメッセージに勇気付けられた。がんになっても治る方法はあるらしい、自分の身近な人では初めて聞く話だった。

だけれど、まだがんという現実を受け入れられない僕は紹介された本には手をつけられなかった。

この時点では、がんに立ち向かう決意もまだみなぎっておらず、僕はそのあと人生で一番長い2日間を過ごした。その時はがんについては調べることはやはりあまりできなくて、インターネット上に転がっているどうでもいい記事を眺め気を紛らわせた。ただただ時間だけが過ぎていった。

迎えた10月29日、診断結果告知の日。僕はその日は朝から、恋人が買って来てくれたお守りを握りしめ、東京タワーの見える窓から、青くて少しだけ寂しさのある秋空に向かって祈っていた。最悪でもステージ3で留まっていてくれ、と。

心臓が胸の奥で波打っている。

お昼過ぎ。家族親族合わせて8名程度病棟のロビーにぞろぞろと現れた。元消化器外科の医師である叔父も遠方からかけつけてくれた。

叔父は体が大きい、肩幅も広く、歩きかたもしっかりしている。とても70歳を越えた人間だとは思えないくらい体の芯がしっかりしている人だ。会うのは、20年ぶりくらいだろうか。無礼にもすっかりご無沙汰していた。

叔父は僕に会うなり、僕の覚悟を試すような質問を優しくかつ力強く聞いてきた。どうやら、医師によっては、患者の心情とは関係なく、想定されうる事実を淡々と話すことがあるらしい。時にそれは患者を無下に傷つけてしまう。それを叔父は懸念し、僕の覚悟を試していたようだ。

その時はよくわからなかったのだが、叔父は僕が慢性前立腺炎を患っていることも心配していた。これは後でどういうことかわかることになる。(今後話にでてくるだろう。)

最後に叔父からは、「俺がまず医師から説明を聞いて、そのあと俺が君に伝える、というようにしてもいいんだぞ。」と申し出があったが、やはり自分自身で聞きたいと、断った。そうすると、本当のことが知ることができないかもしれないと思ったから。

叔父との会話が終わり程なく、病室と同じフロアにある会議室へ呼ばれた。

心臓のドキドキが止まらない。会議室までの10メートル、体が宙に浮いているような感覚。

6畳程度の部屋に、12人はいただろうか。僕の家族・親族が8名程度、病院のスタッフが4名程度、互いの肩が触れ合わないくらいのギリギリの距離感は、重苦しい空気をさらに圧迫していた。

狭い部屋には32インチ程度のテレビとテーブル、そしてテーブルの上のパソコンはテレビへと繋がれていた。これからいつもの仕事でのプレゼンが始まるようなセットアップ。

テーブルを挟んで奥に病院サイドのスタッフが座っている。いつもの主治医のYさん、アシスタントのT医師、看護師さん、そして見慣れない医師がもう一名座っている。みな深刻そうな顔をしている。

もうなんかやばそうな雰囲気がびんびんに伝わってくる。笑ってくれとは言わないけど、なんかもう少し雰囲気づくりはできないものだろうか。皆、当事者と同程度の悲壮感に包まれている。

Y医師がいつものボソボソ声よりももう少しはっきりした声で、これまでの検査の経緯と結果を話し始める。そしてついに僕のがんの状況の話に移る。握りしめていたお守りに一層の力が加わる。

僕の希望より少し悪い状況が主治医の口から発せられた。

「ステージ3かステージ4と考えられます。ステージ3だったとしても癌の大きさから手術はできず、抗がん剤治療となります。」

思わず、ふあああ、という声が漏れ出た。声にならない声とはこういうものなのだろう。

医師の説明のポイントは大きく4つあった。

一つめ、肺にある2−3の白い影。すごく小さく、がんかどうかわからないが転移している可能性。

二つめ、腫瘍影周りのリンパ節が2つ程度腫れている。リンパ節転移の可能性。

三つめ、腫瘍が大きく、十二指腸にくっついているように見える。十二指腸まで浸潤している可能性。

四つめ、想定されるがんの進行具合から腹膜播種*を起こしている可能性。

*消化器を包んでいる腹膜に種を撒いたようにがんが散らばっている状態。

特に三つめと四つめの可能性が、病院側が手術を躊躇する要因であったように解釈した。十二指腸は切ることができないので、浸潤していたとしてもどうすることもできない。また腹膜播種がある場合も同様で手術は適用しない。それはこの病院の外科医の意見であったらしい。

確かなことはわからないが、”可能性を積み上げると手術はしないほうがいい”、そういう判断だったように聞こえた。

そういえば、今思うと、あの会議に外科医は同席していた記憶がない。主治医は内科医で、その隣の謎の医師は化学療法の医師だったからだ。うーん不思議だ。

その化学療法の医師、メガネをかけ勉強ができそうな顔をしている。歳は30代中盤くらいだろうか。医師としては若いほうだと思う。

その医師が化学療法の説明に入る。まず、腹腔鏡手術で狭窄を起こしている大腸を小腸から切り離し、小腸を人工肛門(ストーマ)につなげ、口から物を食べられるようにするとのこと。僕は、大腸が狭窄していたため入院してから点滴と液体物しか摂取していなかった。さすがに点滴のままだと化学療法に耐えるのは難しいらしい。

そして栄養状態が改善したら、強めの化学療法を入れて、腫瘍を小さくする。これをまず6ヶ月間行う。早ければ3ヶ月間で効果が出るとのことだった。

僕はPS0という体の状態であり、若くてイキがいいので強めの化学療法ができます、ということを強調していた。僕に対する彼なりの気遣いだったのだろう。

一通り化学療法の説明が終わると、主治医がまとめにはいった。セカンドオピニオンももちろん聞いてもいいが、彼は早めに治療方針の合意をしたほうがいいと思っているらしい。がんの想定進行具合から、時間的猶予がないというのが彼の発する言葉の端々から感じて取れた。

僕は最後に、この治療手順を踏めば治るのか、聞いた。医師たちは約束はしなかったが、確率は低くないような答えをしてくれた。ほんのわずかだけど希望が心に触れた気がした。

告知タイムが終わり、フロアのロビーへ家族とともに戻る。僕は、なぜ手術ができないのかやはり納得できず、叔父に質問をぶつけた。

まず、手術は体の侵襲が激しいのでとりあえず体を切って見てみるということはしない、そして厳密に言うと十二指腸をきることはできるが難しい手術になるので手術をしないほうが無難、叔父が教えてくれた。

現場から離れて久しいが叔父の経験上、今テーブルに上がっている治療法がベストである、とのことだった。

そして叔父は僕のがんはステージ4であることを前提に話を始めた。僕の頭にはステージ4の生存率がよぎり、感情が震える。

それを感じたのか叔父は一層力強く話を進めた。覚悟と希望を持たせようとしたのだろう。

今は化学療法が進化している。もし6ヶ月間で効果が現れなくても次の抗がん剤がある。腹膜播種、肺がんに見える影、化学療法が効けば全部消えるから心配するな。

彼の話には少しだけ嘘が入っていた。患者に光を与える、叔父はそういう医師なのだろう。

でもその時は僕はそういうもんなんだと思っていたし、勇気をもらえた。

これが最善の治療法なんだ、きっと大丈夫だ、僕はそう自分に言い聞かせた。

家族が帰った後、僕は看護師さんに主治医のYさんを病室まで呼ぶように頼んだ。そして、彼らの掲示した治療法に合意する旨を伝えた。普段は感情を表に出さない人なのに、顔が本当に少しだけ明るくなった。

「ではすぐにとりかかりましょう。」いままでにないはっきりした口調でそう告げると、足早に病室を後にした。僕には走り去ったようにすら見えた。この人は本当は患者思いの優しい人なんだろう、そう感じた。

その日の夜。僕は2時間の外出許可をもらい恋人と東京タワーに行くことにした。まだ付き合う前に一緒に来たことがある思い出の場所だ。東京タワーには大展望台と、そのさらに上に特別展望台がある。前は大展望台止まりだったので、今日は特別展望台に登ろう、僕はそう言って二人で東京タワーへ向かった。

夜の空気は冷たさを増し、キリっとしていて澄んでいる。入院して1週間ほど、ずっと室内にいたからか、冬がもうすぐそこまで来ているのを敏感に感じ取った。

東京タワーへ向かう途中、今日の昼に医師から伝えられたこと、これからの治療方針のことを彼女に話した。

きっと大丈夫、微笑みながら彼女は僕を励ます。

東京タワーへ着く、しかし特別展望台は工事中で入れなかったので、しぶしぶ前回と同じく大展望台へ上がる。

じゃあ、今度またここに来てその時は特別展望台にあがろう。

彼女の言葉に胸がしめつけられる。

僕は、東京の夜景ばかり見て、あまり彼女の顔を見ることができなかった。

がんに勝たないといけない理由ができた。

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コラム:上行(横行)結腸がんの自覚症状

ここでは本編とは切り離し、上行(横行)結腸がんの症状について書く。

(横行)としているのは、僕のがんはちょうど上行結腸と横行結腸の間にあったためそう記載した。ただ以後は面倒なので上行結腸とだけ記載する。

何を隠そう、今からここに記すのは主観的情報だ。

だけどやっぱり”もしかして、、、”って思った時、自分の自覚症状をググって原因を追求したくなるのはすごーくわかる。なぜなら僕自身それをかなりこじらせていた類の人間なのである。

そして、上行結腸がんは大腸がんの中でも少数派で、情報も他の部位に比べると少ないかもしれない。

だから、飽くまで僕の自覚症状として、上行結腸がんになった時にどういった症状がでていたか、それを記載しておくことにした。

ちなみに僕のがんはすごく大きかった(らしい)。だからこそ症状がでていたとも言える。なのでこれらの症状がでていなくても、がんではないとは言い切れない。

自分は大腸がんかも!と思ってここをのぞいてくれた方には、いずれにせよ病院でキチンとした検査は受けてね!!

 

さて、恐らく、自分の予想だが、思えば、大腸がん発覚の2年くらい前から症状がでていた・・・。

改めて振り返ると、体から出ていたシグナル全てを楽観的な思い込みで無視していたということがよく分かる。

まず、上行結腸がんの自覚症状の出にくさを説明してから、自覚症状を記載していくことにする。

———

上行結腸がんは自覚症状が出にくい?

口から入った食べ物は、胃でどろどろに消化され、小腸で栄養分が吸収される。その後大腸が水分を吸収し、最後にお尻から個体として排泄される。

驚くことに大腸は水分だけしか吸収しないのである!!

と、驚いてみたものの、これが一般常識だったとしたら恥ずかしい。

もう少し小腸以降の消化のプロセスを細かくすると、

小腸で栄養吸収されたどろどろの液体物は、大腸に入り、上行結腸→横行結腸→下行結腸→S字結腸→直腸→お尻の穴、という順番で移動しながら水分が吸収されていく。つまり直腸のころにはどろどろの液体から水分が抜けて、見覚えのある個体ができあがる、という仕組み。

で、なぜ上行結腸がんは自覚症状が出にくいのかというと、消化物が上行結腸を通過する時はまだ液体だから、というのが理由の一つ。直腸などで腫瘍ができた場合は、固体化した便と腫瘍がこすれ合い血便などの症状がわかりやすく発現するという。

上行結腸で同じように腫瘍がなんらかの形で出血場合も、直腸に行き着くまでに血が黒くなり、排便しても出血を気づかず見逃す可能性がある、ということらしい。

ちなみに上行結腸は例えば直腸にくらべて口径が広いので、ある程度の大きさになるまで症状が出にくいということもあるらしい。

僕が自覚した症状(完全なる主観)

1.お腹が痛い。

発見に至った症状である。僕の場合はどうやら腫瘍が大きく、腸を塞ぎつつあり、消化物が腫瘍手前で滞留、腸内細菌が繁殖し炎症を起こしていた、と考えられている。のちのち分かったことだけど、虫垂が閉塞していたため僕の場合は虫垂炎を併発していた可能性もある。

2.きれいなチューブ状の便がでなくなった。

思い返せば、がんが見つかる2年くらい前からチューブ状のきれいな便がでなくなっていた気がする。

少なくとも発見1年前からは、細かくちぎられたような便がお尻からはじけるようにでていた。(なんとおぞましい!)

そして発見の2−3ヶ月前には稀に真っ黒いタールのような便もでてきいた。これはおそらく腫瘍からの出血だったのではないかと推測される。

がん治療後にきれいな巻きうんちが出た時、これがうんちだった、とやっと本当のうんちのことを思い出すことができた、そのくらい上記の形状が常態化していたのである。(ひえー)

ちなみに当時は仕事のストレスのせいだとこじつけていた。

3.腰の右側がじんじんする。

これは発見1年くらい前からでてきた症状。ちょくちょく出現するのでずーっと気にはなっていたのだ。特にお酒をたくさん飲んだ日やご飯をたくさん食べた日の翌日に症状が出ていた気がする。

これは座り仕事が多いので腰が凝っているためだと思い込んでいた。

4.体重が増えない。

体重には気を使うタイプだったので、どういうものを食べていると太る痩せるという感覚が身についていた。

なのに発見前、絶対に太る食事をしていたのに体重が増えないという謎の現象が起きていた。あれはがんによるものだと考えられる。

そしてこれは当時はまっていた筋肉トレーニングによる筋肉増加、それによる基礎代謝上昇の恩恵と歓喜していた。

5.顔色が悪い。

入院前の写真を見ると、明らかに顔が白く血の気が引いている。おそらく血便で気づかないうちに貧血になっていたのだろう。

これも仕事のストレスとして処理。

———

うーん、やはり危機管理能力が欠如している、この男。


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がんと向き合う方法:前編

「他の検査を見る限りいまのところ他の臓器に転移は確認できていませんが」

主治医のY医師は僕の愕然とした様子を察したのか数秒後にこう言った。しかし、それはがんに向き合う覚悟ができていない僕には何の慰めにもならなかった。

検査が終わるとベッドを移され、待機室のようなところへ運ばれた。鎮静剤の効果が持続していたため、歩いて病室へ帰ることはできず、入院病棟からの迎えを待つ必要があったのだ。

15分ほどで迎えが来ますという言葉を残し、僕を運んでくれた看護師さんたちは去っていった。仰向けに寝かされた僕、その時の待機室の白い天井が印象的だった。鎮静剤が今ごろ効いてきたのかと思うくらい頭の中がぼやけていて、天井がぐるぐると回っているのだ。そして、嘘だ、ありえない、なぜ僕が、そんな言葉が頭の中でずっと鳴り響いていた。

それからどのくらい時間が経っただろう、15分という時間はとうに超えていたと思う。僕はイライラし始めていた。なぜなら早くこのことを家族に伝えないといけない、という衝動に駆られ始めていたからだ。恐らく、少しだけ現実に向き合うことができてきたからだと思う。

ようやく入院病棟の看護師さんたちが現れた。キャスターの着いたベッドに寝たまま入院病棟へ運ばれた。検査室へ向かう廊下、さっきまで自分で歩いていた廊下を、仰向けになった状態で通過して行く。なんだか重病人感が増す。

部屋に戻る。携帯電話は部屋のセーフティボックスに入れてあった。担当看護師さんから鍵をもらい、携帯電話をセーフティーボックスから取り出すと、すぐに実家に電話をかけた。しかし、繋がらない。数分後にかけても留守のままだ。

そこに主治医がやってきた、先ほどの内視鏡の検査の結果を改めて話し始めた。

腫瘍が大きく、狭窄をおこしていたためカメラが途中までしかすすめず、全景はわからないが、進行癌の可能性が高いとのこと。そして他臓器への明らかな転移は認められないが、先日の上腹部CTの結果を見ると肺に微小な白い影があるとのこと。

話を聞きながら、目に涙が溜まるのを感じた。

“さっきまで転移はないって言ってたじゃないか!”

この人の前で泣いてどうなるものでもない、そう思い涙は流さなかった。

3日後に最終的な診断結果と治療方針を家族にも説明したいと告げ、Y医師は病室をあとにした。母親に報告しないと、と数分おきに何回もかけるがやはり出ない。焦る。そしてこれは、今すぐに母親に電話しないといけないという焦りではなくなり、今すぐ母親の声がききたいという焦りだと感じ始めていた。

しばらくは仕事にも手がつかなくなるだろうし仕事でも迷惑をかけることになるだろうから上司にもこの状況を伝ないと、と電話をかける。最初は冷静に切りだしたのだが、上司の声を聞くとすぐに声が震え始めた。

仕事のことは考えず、自分のことに専念してください、きっと治る。復帰する段取りも作るから。という励ましをもらった。僕は、はい以外言えなかった。それ以外の言葉は発すると心のダムが崩壊する、そう感じたから。

その後またすぐに母親に電話した。今回は、出た。もしもしという僕の声を聞き、母親が、あんた風邪ひいてるでしょ?と一言。すでに鼻がグシュグシュになっていた。違う、落ち着いて聞いて、という言葉がすでに震えている。「分かった。」と言った母親の返事が力強買った。覚悟したのだろう。

そしてこれまでの経緯とがんの可能性を伝えた。母親は動揺を見せなかった、そして冷静に話をしだした。若いしまだがんは治るということ、母親のお兄さん(叔父)が元消化器外科の医者であるため相談してみること、そして他の親類に母親が連絡するということ。

母親の声はその間ずっと力強かった。そうえいば僕の母親は病気による修羅場を幾度もくぐってきた人間だ、ということを思い出した。

そして、叔父が医者だったということも思い出した。

母親への連絡をひとまず終了し、部屋に戻り、今日の出来事を反芻した。

本当にこれが現実なのだろうか。そう思わずにはいられないくらいリアリティがない。

いずれにせよ貴重な機会だ。これまで起きたことを書きとめておこうとパソコンを開いた。

自分の気持ちを含め振り返りながらタイプしていると、ふと母親の力強さを思い出し涙が溢れてきた。そんな時、部屋のカーテンの仕切りの下から若い男が履くスニーカーが目に入った。僕の名前を呼ぶのぶとい声、それは次男だった。

涙を拭き、落ち着いて今の状況の話を彼にした。部屋で話をしているのも周りの人に迷惑なので、場所を変える。

母親と叔母も病院に向かっているとのことで、1階のラウンジで待つことにした。しばらくすると母親と叔母が小走りで現れた。皆の顔に悲壮感のようなものがないのは僕にとっては救いだ。

しばらくすると長男もきた。(ちなみに男3人兄弟である)皆に状況を話す、長男が一番冷静だ。彼としては今何か騒ぎ立てるよりも。3日後に出る診断結果を待ってそれを受け入れることが重要だ、といった考えを彼の言葉の端々から感じた。確かにその通りだ。

みんな帰り、病室に戻ると急に抜け殻のようになってしまった。何も考えたくない、そんな感じだ。

彼女への恋しさからメッセージを送りあった。彼女も気丈に振舞ってくれているんだろう、前向きな言葉を投げかけてくれる。これが彼女のいいところなんだ。

絶対、いままでの生活を取り戻す、強く思った。精気が戻ってきた。

今まで普通の生活を送ってこれたことがどれだけ幸せなことか、それをしみじみ感じる。多分これは人に言ってもわからないだろうと思う。そう感じた当人だけが分かる感覚なんだろう。がんがもたらした唯一の良い点なのかもしれない。

それにしても悔しいしやるせない。丁度自分のキャリア転換を考えていた矢先の出来事だったからだ。今回の一件は僕にとっては岐路だ。まずは助かること。しかしがんは大なり小なり一生自分の人生に付きまとうだろう。その中で、自分はおそらく、長期的なビジョンというよりは、短期・中期的な目標に向かって駒を進めたほうがいいのかもしれないな、そんなことを考えていた。

まあ、もともと長期的なビジョンがなかったのだから丁度良い。いずれにせよキャリアを転換することは置いておいて、現職に復帰し、中途半端にしてきたものを整理して、再度全力でプロジェクトに取り組もう。

今までの人生に自分を”戻す”ことが目標になった。

不思議なことに、今まで散々僕を苦しめていた腹痛がもう夜にはなくなっていた。この腹痛はそもそも僕にがんの存在を知らせるために、体が発していたものだったのかもしれない。役目を負え、痛みは去った。実はいいやつなのか。そう考えると、なんだか僕も助かるんだろうなと思えた。

しかし、不安になるのは不安になる。だって僕の展望とは逆の方向に全てが進んでいくんだから。

その時は3日後以降の未来が考えられなかった。3 日後の話が自分のこれからの未来を映し出す。そして僕はその未来をもっと高みに持って行く。これは僕に与えられた試練、乗り越えて前に進むしかしない。

その日の夜はあまりよく寝られなかった。見る夢といえば、怖い夢が多くて、途中で何度も起きた。夜勤の看護師さんの声や同室の患者さんが出す物音が恋しくて、いつもはつけている耳栓をせずに寝ていたことも関係あるのであろう。

物音が恋しい、一人でいることの孤独が怖いんだろうと思う。もしかすると誰かが自分のベットで添い寝してくれていると安心感が増すのかもしれない、なんて考える。うーむ、驚くべき変化だ。いままで一人でいることにこの上ない快適さを感じていた人間なのに。

診断が確定するまで後 3 日、自分にとってはやっぱり来てほしくない日で、時間がゆっくり進めばいいのに、とベットの上で思っていた。

翌日、不安な朝。ふと、高校の入学式の朝を思い出した。

今の状態に比べればなんてことないことなのだけど、当時は知り合いが一人もいない新しい学校に馴染めるかどうか不安になっていたなと、その時の思考とすれ違う。

でもやはり入学式なんかとは違う。そもそも今自分に起こっていることが現実だとは思えないのだ。意識がぼんやりしている。正に夢をみているかのよう、という感覚はこういうことなのだろう。

そんな思考のままベットの上でため息と共に過ごしていると、従姉妹からLINEが入ってきた。どうやら母親から話を聞いたらしい。彼女は実の従兄弟の奥さん。出版社に勤めるエネルギッシュな編集者で、いつも楽しい雰囲気を作ってくれる人である。そしてこの彼女の助言により、がんと向き合う決意がみなぎることになるのだ。

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悪性腫瘍確定?

病院の消灯は9時。昨日まで普通の生活をしていた身である。9時に寝ることは不可能だ。救いだったのは、僕の入院していた病院は消灯しても、音を出さなければ各自テレビやパソコンなど自由に使えること。そして何よりWifiの完備は嬉しかった。

その日の夜早速右下腹部の痛みについて調べ始めた。その時の僕には、悪性腫瘍ではなくこれは”憩室炎だ”という証拠がどうしても必要だったのだ。その日どこまで自分を安心させられたかは覚えていない。気づいたら寝ていて、朝になっていた記憶だけ残っている。

入院後初めての朝、Y医師と共に若い女性の医師が訪ねてきた。どうやらY医師のアシスタントのようだ。研修医のような雰囲気を持つそのT医師から今後の検査日程を聞かされた。

これから先5日間ほどで、血液検査、MRIと上腹部のCT、それから最後に内視鏡の検査をやるという。内視鏡の検査の時までに右下腹部の炎症をできるだけ抑えたい、といったことも聞かされた。

検査日程を聞いた僕は狼狽えた。昨日パソコンで調べていたうろ覚えの知識から、上腹部CTとMRIをするということは、悪性腫瘍がほぼ確定していて他に転移していないか確認する検査にしか思えなかったからだ。

「何でその検査をするんですか?まだ疑いですよね?ただの憩室炎の可能性もありますよね」聞いた僕に対して、「・・・念のため、です」と歯切れ悪く返事をしたT医師。

歯切れが悪いのも仕方がないことだった。なぜならこの時点で僕の悪性腫瘍はほぼ確定していたのを、医師と看護師は知っていたから。

あとから分かったことだが、僕の腫瘍はCT画像上ですごく大きく写っていて、大きさから普通の腫瘍の確率は低いことは明白だったらしい。このあと、Y医師が憩室炎を疑う僕にCT画像を見たかどうか念を押すように聞いてきたのも、CT画像を見れば憩室炎どころの話ではないことはあきらかだったから、間接的にある程度の覚悟を持たせようとしたのかもしれない。

しかし、通常の大腸との比較対象が頭にない僕にとって、診察室で数秒間見せられた僕のCT画像に異常があるなんてわかるはずもない。更に言えば疑惑宣告時の記憶はあいまいというおまけ付きである。

さて、入院中やることは日に1つあるかないかの検査だけ。入院中の身というステータスをフル活用し、残してきた仕事は同僚にメールで指示出しするだけという殿様ぶり。もともと一人のインドア生活が好きな僕は、はやくも入院生活の自由時間を楽しみ始めていた。その大半は悪性腫瘍を否定する証拠集めに奔走していたわけだが。

そんな中、突然夕方に病室のカーテン越しに僕を呼ぶ声が聞こえた。会社の上司が来てくれた、アポなしだったのでおどろいた。

ありがたいことに、ここから彼女は週末になると必ずお見舞いに来てくれるようになる。(この時はそんなことは全く考えていなかっただろうけど。)僕は仕事のこと、悪性腫瘍の疑いがあることを話した。彼女は『きっと悪性腫瘍じゃないから大丈夫」その言葉を残して帰っていった。勇気付けられた。

とは言え、医師でない人間に悪性腫瘍ではないと言われても科学的ではない。

・・・なるほど。結局は医師に聞くのが一番良さそうだ。悪性腫瘍ではないことを確かめる方法を思いついた。

僕は、自分の主治医ではなく、匿名の医師に直接質問できるウェブ掲示板サービスを活用することにしたのだ。普段であればこういった匿名性の高い掲示板に信頼を置くことはないのだけど(まあ僕のブログも同じようなものだが)、悪性腫瘍を信じて疑わない主治医は、その時の僕にとって倒すべき相手になっていたため、他の医師(しかし匿名の)を頼らざるを得なかったし、冷静さを欠いていたのだと思う。

そして時間をかけてこれまでの経過をできるだけ正確に詳細に客観的に書き、掲示板へ投稿した。すると続々と僕の書き込みに対して返信が届いた。

その中の内容はどれもポジティブなものばかり。「その歳で大腸がんは考えにくい』「症状から見ると憩室炎が妥当」といった麻薬のように優しい答えたち。

中には「画像診断士や主治医が悪性腫瘍の疑いを認めたならその可能性は高いでしょう」というような意地悪な(至極真っ当な)答えもちらほらあったが、当然僕はそれを無視した。

“きっとこの病院の医師たちの判断が間違っている、もしくは慎重になりすぎているだけなんだ。”

僕の作戦は一定の成功を収めたらしい。

冷静に考えれば、検査結果を全く見ていない医師の意見なぞ、以前に書いた町の医師たちの診断よりも圧倒的に精度が低いに決まっている。”何かにすがりたいときもあるんだよ。人間だもの。” どこかで聞いたことのある言葉が身に沁みる出来事である。

そして当然、はりぼての幻想はその後あっさり打ち砕かれるになる。

入院5日目に内視鏡の検査を迎えたのだ。内視鏡は大腸がんの確定診断を出すにはもってこいの検査だ。実際に大腸にカメラを入れて、何なら細胞を採取して病理検査までできる。細胞を採取して直接見るんだからもうこれは間違いない。

ここ4日間何も摂取していなかった僕の大腸はすでに何も入っていなかったのだが、検査の朝、2リットルもの下剤(悪名高いニフレックだ)の飲用に挑戦した。よく大腸内視鏡で辛いと言われるこのイベントだが、僕はお腹に液体を流し込むことが得意だったのとトイレがずっと空いていたこともあって、全く問題なく完遂した。

ただニフレック自体の味はマズイということは言っておきたい。経口補水液の味に似ている、と思う。

気がかりだったのは、まだ右下腹部が痛かったこと。炎症が収まっていないということは、このまま内視鏡を入れられたらきっと痛いんじゃないか、そこがすごく気になっていた。

午前中にニフレックにまつわる一連のイベントを終え、検査室へ呼ばれるのを病室で待っていた。大腸がんではないと信じる僕であったが、緊張していた。それは明らかに初めての内視鏡に対するものではなく、今日で全てが分かるっていうことに対してのものだった。

程なく検査室に呼ばれた。何も持っていってはいけないとのことなので、メガネを外し、携帯電話や財布などの貴重品を病室のセーフティーボックスに入れ、鍵を看護師さんに渡し、検査室へと一人で向かった。

検査前、妙に覚えているのは、検査室の時計の針が1時15分くらいを指していたこと。時間よ止まれ、そんな思いからか。検査室へ入ってから内視鏡検査のためベッドに横たわるまではスムーズだったと思う。内視鏡をしてくれる医師は、北の国からの純こと、主治医のYさんだった。アシスタントのT医師も一緒だ。

ベッドの上で横向きになり、鎮静剤を打たれ、お尻に穴にゼリーを塗られる。お尻のゼリーは鎮痛剤の役目があるらしい(確か)。

「それでは#$+♪&%@」Y医師が相変わらずボソボソつぶやく。まったくしゃべりかたまで北の国からの純だ。

と、肛門に何かを差し込む感覚が少しだけある。内視鏡がお尻の穴の中に入っていったようだ。全く痛くない。

鎮静剤を打たれていたにもかかわらず、自分の目で結果を確かめたかった僕は首をくの字に曲げて、内視鏡から映し出される大腸の映像に目を凝らした。メガネの代わりにコンタクトレンズをしてこなかったことを悔やんだ。映像は何とか見えたが詳細はわからない。ピンク色した綺麗なシワシワの空洞が映し出されているのはわかった。

カメラを進めていくと、Y医師がT医師にボソボソ何かをいっている。全く聞き取れない。何かを採取しようとしているようだ。細胞の採取を2−3箇所で行い、その後あっさりと内視鏡は終わった。体感、15分くらいだろうか。

僕が見る限り、悪性腫瘍のようなものは見つからなかったが、内視鏡がお尻から引き抜かれたあと、すぐにY医師に僕は聞いた。「何か見つかりましたか?」

Y医師はハッキリと答えた。「腫瘍がありました。」

僕は聞く。「悪性ですか?」

Y医師、「見る限りでは間違いないと思います。」

愕然とした。僕の描いた幻想は北の国からの純によってあっけなく打ち砕かれたのである。
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悪性腫瘍疑惑

大学病院で検査なんて生まれて初めてだった。それにしても他の病院から紹介状がないと基本受け付けません、といったシステムは新鮮だ。(正確にいうとお金を払えば誰でも診てもらえるようです。)

そりゃー、ほっといたらみんな大きな病院で最初から見てもらいたくなるもんね。大学病院の前に、まずは町医者で対処・スクリーニングするこの医療システムは面白いなー、と無学丸出しのまま、お昼前に大学病院の門を叩いた。

紹介状もあってか思っていたよりスムーズに診察室に通されると、S医師の知り合いの少し気の弱そうな青年、K医師から簡単な問診があり、K医師からは憩室炎の疑いと憩室炎の場合は入院の可能性がある、と告げられた。

憩室炎を治すために食事を1週間ほど断って腸に刺激を与えないようにする必要があるらしい。仕事のプロジェクトが佳境に入っている中困るなー、くらいにしかその時は考えていなかった。

まあとりあえず検査の結果を見ましょう、ということで、その日の午後に造影剤を使った下腹部のCTと、レントゲン検査の予定を組んでもらい、憩室炎の可能性があるからお昼は食べないようにと、忠告を受けた。

しかし、僕は医師の忠告を無視することにした。

食べることが好きな僕にとっていきなりこの時点で一週間の断食スタート!なんて耐えられないし、今日から始めようが明日から始めようが大して変わらん!というのが当時の考え。

光の速さでその結論に至った僕は、診察が終わると迷うことなく病院の外に出て、某チェーン店の大盛りのカレーを口にかきこんだ。

これから1週間何も食べられない最後の食事にカレーは理想的ではなかったのだけど、病院周りに適当なお店がなく渋々最後の晩餐としてカレーを楽しむことにしたのだ。

これが1ヶ月半の断食生活に入る前の最後の晩餐になるとはその時は知る由もなかった・・・。

食事を終え病院に戻ると、憩室炎と決めつけていた僕は、会社の上司に仕事の話のついでに入院するかもしれない旨の連絡をした。彼女は少し驚いていたが、また正式に決まったら教えて、と言われ電話を切った。

レントゲンはともかく、CTで原因がわかって治療ができて腹痛が治るってことを単純に考えていた僕はワクワクしながら検査室の前で順番を待っていた。

順番を待っていると検査室からひょこっと現れた看護師さんから書類を手渡された。目を通して内容に同意して欲しいらしい。ただ、書類には恐ろしいことが書いてあった。

簡単に言うとこうだ。

『造影剤による副作用であるアナフィラキシーショックなどでごく稀に死ぬことがありますが了承してくださいね。』

死と隣り合わせになったことのない僕にとって、書類の内容は衝撃だった。

この時はさすがに同意のサインするのに少し躊躇したものの、これを皮切りにこういう類の書類が事あるごとに登場し、同意のサインがただの流れ作業になっていったのではあるが・・・。

でも、後日登場する麻酔科医Sさんの患者を安心させる麻酔の副作用の説明はさすがだったなあ・・・この話は後ほど。

さて、名前を呼ばれ検査室に入ると、テレビで見たことのある円形の機械が部屋の真ん中に置いてあった。造影剤の副作用の恐怖にドキドキしながらCTを無事撮り終え、朝の診察室の前に戻り、検査結果の説明を待った。

1時間ほど経ったであろうか、診察室へ呼ばれると朝とは違う医師がパソコンの画面を見つめていた。

なぜ朝の気弱そうなK医師ではないのか、わからなかったのだが(これは今だによくわからない)、その40代くらいの医師は眉間にしわを寄せ、険しい顔をしている。

もともと険しい顔をしているのか、検査結果の具合が悪いから険しい顔をしているのかわからないそのM医師は、多分CTの画像を見せながらこう切り出した 。(”多分”というのもここらへんの話はちょっと記憶が曖昧になっている部分があるのだ。)

「悪性腫瘍の疑いがあるので、精密検査の必要が出てきました。」

悪性腫瘍の疑いと最初に聞いたときは、まだ僕には余裕があったという感覚は残っている。しかしのその余裕に次の言葉が突き刺さった。「奥様はいますか?ご両親やご兄弟はこちら(東京)にいますか?」「今後病院に来て話を聞いてもらう必要もあるかもしれない。」

病院に来て話を聞く必要?

悪性腫瘍の疑いは僕の中でリアルになった。

心臓がドキドキし、手が震えている。頭がぼーっとしている。嘘だろ。嘘だろ。そんな言葉が頭に響き渡っていた。

『今日入院してもらうけど大丈夫ですか。ベッドの空きを調べます。この後看護師から説明があります。とりあえず次は心電図をとります。』といったことをM医師が話してたけど、頭に入ってこない。

とりあえず心電図をとりに行くことにした。体にタコのような形をした冷たい吸盤をペコペコつけられ計測されたのだが、心電図をとる意味もわからないし、そもそも今心臓がドキドキしている状態で、心電図とって意味あるのか?と怒りを感じた記憶がある。あの時は、静かに自分の頭を整理する時間が必要だったんだと思う。

そんな気持ちとは裏腹に、病院は迅速に入院の準備を進めていた。

心電図をとり終えると、看護師さんから呼び出され、ベッドが空いていること、差額ベット代というものが数千円かかることの説明があり、着の身着のまま病室へと連れて行かれた。

このまま収監する算段らしいことは明らかだった。

消化器内科のフロアに通され、4人部屋の廊下側のベッドが僕にあてがわれた。想像以上に狭い。だけどこのベットの空間は、昔から狭い空間が好きだった僕にとってその後なかなか快適なものになっていった。

ベッドに通されると、一人の看護師さんが顔を出した。明るい印象で人を元気にする雰囲気を持ってる人だった。どうやら今日の僕の担当らしい。『担当はM先生ですね、M先生、私は好きだなあ』と乙女のような可愛いことを言う看護師さん。

僕の顔に不安が出ていたのであろう、入院生活のことを一通り説明してくれたあと、『入院理由は悪性腫瘍の疑い、まだ疑いですからね』と”疑い”を強調してくれた。少しだけ救われた。

気持ちが少し落ち着いた僕が、家に一度荷物を取りに帰りたい旨を伝えると、快く医師に確認することを約束してくれた。

しばらくすると、ドラマ”北の国から”の純に似たY医師が部屋を訪れた。40歳前後であろうか、なかなかイケメンだが感情が全く読めない医師だった。どうやら、僕の主治医はいつのまにかM医師ではなくY医師になったらしい。(これも今だによくわからない)

ボソボソと話すY医師から簡単に今の気分やお腹の痛みについて聞かれた後、外出の許可を無事得た。

ここから電車で40分くらいの距離にある家に帰ったのだが、どう帰ったか記憶にない。ただ、家の扉を閉めた途端に声を出して泣いたことは覚えてる。自分に降りかかる恐怖を吹き飛ばすように声をあげて数秒間泣いたんだ。この時はまだがんに関して知識がなかったし、イメージとしての恐怖しかなかったから。

病院に戻った時には、すでにあたりは暗くなっていた。旧病棟と新病棟をつぎはぎした病院はまるで迷路のようで、夜になり外からの景色が一変したことも相まって、方々迷いながらやっと入院病棟の入り口を見つけた。

病棟を見上げ、朝ここに着いたときにはまさか夜をここで過ごすとは夢にも思ってなかったなあ、とふと思った。病室に戻り一息ついてから、入院する旨を会社の上司と恋人に報告した。

どういう報告をしたか、記憶は曖昧だけど、悪性腫瘍の疑いのことは言わなかったと思う。あと、親には報告をしなかった。余計な心配をかけたくなかったし、何かがわかってから報告しても遅くないと思ったからだ。

その夜、家から持ってきたパソコンで、病気のことを調べ始めた。今自覚している症状から、大腸がんでは”ない”可能性を探るある種のエゴサーチの始まりであった。

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町医者の限界:後編

そして10月18日。血液検査でついに炎症反応を表すCRPが9を超えた。9月中旬の結果では1程度であったものが、9倍になったのである。詳しいことはわからなかったが、どうやら少しまずい状況であることはS医師の表情からうかがうことができた。そして、S医師から大学病院での検査の提案があった。この1ヶ月間、病院に行く回数も増え仕事に支障が出始めていたので僕は二つ返事でそれを受けた。

結局その後、大腸がんだったってことがわかったんだけど、今回の件は町医者の限界を強く感じた出来事だった。

2ヶ月もよく病気を治せない医者の元に通ったな、と思われる方がいると思うし、それは当然だと思う。

当時僕は町医者を過信しすぎていたと思う。でも僕も何も考えず通い続けたわけじゃなくて、僕なりに調べてみてS医師はやっぱり消化器のプロだったし、その人が大腸がんの可能性は否定していたから大学病院というところまで頭がまわらなかった。いつか治るだろうって、その程度だった。

そして、実はS医師の元に通いながら、いつも何かあると通っていたA医師の元にも行ってみていた。還暦を少し超えた程度のベテランであるA医師は、自分の元に先にこなかったことにヘソを曲げていた。お盆に空いている病院がS医師のところしかなかった旨を話しても怒りが治らない様子で、すごく面倒だったが、最終的には和解し診断をくれた。

大腸がんはこの歳でありえない、憩室炎だ、とのことだった。そしてS医師は消化器のプロなのでそのまま治療を続けることも勧められた。なのでやはりS医師で間違い無いんだとその時も思った。

ただ、2つの障害があった。

1つめは、A医師もS医師も端から大腸がんを除外して診断していたこと。A医師は、年齢から考えるとありえないということを断言していた。S医師もおそらく同じ考えだったのだろう。

なぜならもし大腸がんの可能性を考えていたら、通院中何回もしていた血液検査で大腸がんの有無がある程度の精度で分かる腫瘍マーカーのひとつ、CEAも計測していたと思う。残念ながら今手元に残っている血液検査の結果を読み返してもCEA項目は空白だった。

無理もない、30-34歳での大腸がん罹患率はその年齢層の中の0.4%程度*。科学者である西洋医学の医師が、ほぼありえない確率を除外して診断することはありえてしまうと思う。

そして2つめは、これこそが町医者の限界なのだが、彼らは十分な検査を行わないまま診断を下さないといけないことがある、ということだ。

S医師は優秀な方だったと思う、少なくとも患者に対する思いやり真摯な姿勢は素晴らしいと感じた。だけど僕のがんを発見するには超音波検査とレントゲンだけでは難しかった。内視鏡の設備はあったけど、炎症のある大腸に内視鏡を突っ込むことは原則行わないらしかった。CTがあればS医師はさすがに大腸がんを疑ったであろう。でもCTのような高価な機器は大きな病院にしかない。

だから小さな病院の医師たちは、自分たちの経験と自分たちの持てる検査機器のみで、診断を下さないといけない。更にもう少し主観を挟みこむと、立場上”診断を決断”せざるを得ない、と僕は感じた。

例えばA医師は憩室炎の診断を言い切った、しかし憩室炎を裏付ける証拠は状況証拠である症状のみで、実際に100%の証拠があるわけではない。同じような症状であれば他の病気もありえたかもしれないし、事実そうであった。

患者を納得させるため、安心を与えるため、いろいろ理由はあるだろうが、町の医師は自分たちの経験と手元にある情報で診断を下さないといけない、それが仕事だから。でもそこには限界がある。

S医師は大腸がんの可能性を除外していたものの、虫垂炎、憩室炎、腸炎、と言ったあらゆる可能性を限りある情報の中から探っていたように思う。そのいくつかの可能性を同時に探ってうーんうーんと唸っていた、今考えると正直な対応だったのかなと思うことはある。

最後に、僕はS医師やA医師に対して何か恨みがあるわけではないことを言っておきたい。これは今生きてるから言えるわけではないと思っている。入院中死に怯えていた時も彼らに対して怒りがこみ上げたことはない。

多分、どこにでもある”そういうシステム”の一つだって感じていて、彼ら個人の問題ではないからだと思う。だけど、もう同じような失敗をしたくないし、これを読んだ皆さんには僕と同じような失敗を繰り返さないようにして欲しいなと思う。

かかりつけの医師だろうが何だろうが、町のクリニックで何回か診てもらって症状が改善しないようであれば自分の判断ででもすぐに紹介状を書いてもらって大きな病院へ行く、これはやっぱり重要なのかなと思うし、それを嫌がらない身近な医師と付き合いをしていきたいと僕は思う。

*国立がん研究センター ガン情報サービスから算出 http://ganjoho.jp/reg_stat/index.html

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町医者の限界:前編

最初に少しだけ僕の紹介をしておこう。必要ないかもしれないけど、これから読み進めるとき、ちょっとだけ人物像が頭に描けるように。

僕は海外生まれ東京育ち、身長は低めで自分で言うのも変だけど、どちらかといえばとっつきやすい風貌をしていると思う。海外生まれということもあり、ネイティブではないが、英語には慣れ親しんでいる。そして、これは結構がんの情報収集に役立った。あと、性格は内向的だけど、仕事上海外の人とやりあうことが多いので、自己主張はキチンとするようにしている。そんなところだろうか。

さあ、大腸がんの話をしよう。まずはどうして大腸がんが見つかったか、そこから始める。結論から言うと、虫垂炎を伴う(と思われる)腹痛が2ヶ月続いたことが発見に繋がったのだ。でも、なぜ2ヶ月も腹痛を放置していたのか、と思われる方もいると思うけど、放置していたわけじゃない。僕は、町医者の限界を知らなかったのだ。

2016年8月上旬。最初は、筋肉痛のような痛みが右下腹部に現れた。1週間経過しても痛みが引ず、むしろ悪化。そう言えば便通が最近なかったな、と思い久々に浣腸をしてみたが便は出ず、腹痛を我慢しながら床についた。

しかし腹痛は僕を眠らせてくれなかったのだ。

その夜、お腹の臓器が波をうっているかのような強烈な痛みが30−40分おきに襲ってきたのだ。これが虫垂炎ってやつなのか、と虫垂炎の経験がなく想像するしかない僕はそう思った。あの時の苦しみようであれば、もし家に誰かがいれば救急車を呼んでくれたであろう。

しかし、僕は一人暮らしでかつ救急車を呼ぶ気恥ずかしさから、我ただ耐えるのみ、という間違った大和魂的な判断を下したのであった。

”もし”、この時CTがあるような大きな病院の救急センターに運ばれていたらもっと早く発見されたかもしれない、そう考えることもあった。

でも、がんとの戦いは”もし”を考えても何も変わらないのだ。”いま”ある情報の中で納得いく選択をする、それしかできることはない。

そして大事なことは、”いま”手に入る情報をできるだけ集めて理性的に判断することだと思っている。

僕自身こういう風に考えられるようになったのはある本がきっかけだった、この話はまた後ほど。

さて、結局一睡もできないまま、朝一番で体をくの字にしながら消化器内科に駆け込んだ。時はお盆、だけど奇跡的に近所の消化器内科クリニックが開いていた、しかもその病院のS医師は消化器内科では有名な人らしい。

病院に入ると、受付ロビーにはS医師のテレビ出演時のキャプチャー画像が印刷され、医師のプロフィールとともに飾ってあった。そこには、間違いなく人格的にも素晴らしいだろうと思える柔和な顔の医師が写っていて、安心した。

朝一番ということもあり、すぐに診察室へ通された。先ほどロビーで確認したままのS医師が座っている。そして、優しい声で丁寧に診察を始めてくれた。

僕が一通り状況を説明すると、触診、超音波検査、レントゲン、血液検査を行ってくれた。

超音波検査とレントゲンでは異常が見つからなかった。そして嘔吐の症状がなくおならも出るということもあり腸閉塞の可能性は低いらしい。明日判明する血液検査の結果次第だが虫垂炎かもしくは何かしらの腸炎だろうということで、抗生剤の点滴を打ってもらい、抗生物質と痛み止めの飲み薬をもらった。

そして明日血液検査の結果を聞きに来ることと、何かあったら躊躇せず救急車を呼ぶこと、を告げられ、家路についた。痛みは少し楽になっていた。

次の日、血液検査の結果を聞きにS医師の元に訪れると、炎症反応(CRP)の値がやはり高く、虫垂炎か腸炎の可能性があるとのことだった。2週間後、腹痛はなくなり、8月下旬には全快した。

– ちなみにS医師の診断や検査内容はうろ覚えの箇所もあるため、何か間違った記載があるとすれば僕の間違いです。-

しかし、9月中旬に入りまたもや腹痛がぶり返してきた。右腹部に恒常的な圧痛がある。前回と違い動かさなければ痛みはないが、体を動かすと痛いのだ。便は軟便。生活に大きな支障はないが、1日だけ赤い水下痢が出てきたため、S医師のもとを再び訪れた。

前回とほぼ同じ薬を処方される。そしてこの時は憩室炎かもしれないとの見立てであった。憩室炎というのは、ストレスなどの要因で大腸の一部が外側に膨れる憩室というものができ、その憩室に便などが滞留してしまうことによって炎症が起きる、というものらしい。

大腸がんではないと思うけど、腹痛が落ち着いたら原因を探るために内視鏡で検査しましょうね、とS医師に言われたが、実現することはなかった。というのも、結局ここからさらに1ヶ月程腹痛は治まらず、S医師の元へ数回足を運ぶも、大腸がんの可能性は無いけど原因がわからない、といったはっきりしない診断と抗生剤による治療が繰り返されただけだったのだ。

後編へ

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告知

2016年10月29日のお昼過ぎ。6畳程度の部屋に、12人はいただろうか。僕の家族・親族が8名程度、病院のスタッフが4名程度、互いの肩が触れ合わないくらいのギリギリの距離感は、重苦しい空気をさらに圧迫していた。

まさにこれから、ガンの告知というイベントが始まろうとしているのを、僕は知っている。

当事者の僕はその日は朝から恋人が買って来てくれたお守りを握りしめ、東京タワーの見える窓から、青くて少しだけ寂しさのある秋空に向かって祈っていた。最悪でもステージ3で留まっていてくれ、と。しかし、僕の祈りより少し悪い状況が主治医の口から発せられた。「ステージ3かステージ4と考えられます。ステージ3だったとしても癌の大きさから手術はできず、抗がん剤治療となります。」思わず、ふあああ、という声が漏れ出た。こうして33歳の秋、僕は大腸がんと向き合うことになったのだ。

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