コラム:しばらく更新が止まってしまった

新しい仕事が始まり、バタバタしているうちに最後の更新から3ヶ月くらいが経過してしまった。

僕は相変わらず元気です。

落ち着いたら、抗がん剤治療のこととかリンチ症のこととかを書こうと思っている。

ちなみに、抗がん剤XELOX治療で出現した末端神経症なのだけど、治療が終わってもう1年経とうとしているのに、微妙に指先に痺れが残っている。

徐々に徐々に消えていってるのだけど、完全になくなるのはまだ先になりそうだ。生活には全く支障がないので、あまり気にしてはいない。

そういえば、仕事をバリバリし始めて、発見があった。

大腸がん発見の2年くらい前から、仕事でストレスを感じると大量の寝汗をかいたり、動悸を起こすことがあった。それがなくなった。

多分、当時は大腸がんによって自律神経をおかされていたんだと思う。

あと、疲れにくくなったとも思う。以前は大腸がんによる出血で貧血していたと思うので、その分身体が楽になっている。

今は前よりも強いストレスにも強くなったし、仕事のパフォーマンスもあがっていてうれしい。

これは発見だ。

いや、これが普通なんだけど。

普通がうれしい。

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予期せぬ知らせ

「この前病理検査の結果がでましてね。リンパ節への転移はなかったんですよ。」

「よかったですね。だから、えー、ステージ2ということになります。」

一瞬何が起きたか理解できなかった。

O医師が病室を出ると、僕は親や恋人や知人にすぐにメールをした。

最初の告知ではステージ4を覚悟し、手術前にはステージ3aと聞き、手術後にはステージ2であることが濃厚となった。医療ってこういうものなのか。

体が、心が軽くなった。

僕のがんの大きさは50mm x 100mmと、通常の悪性腫瘍よりも大きかった。進行度もその大きさに比例していると思われがちであるが、大きくても深達度が低い場合もあるのだ。ただ、これには実はカラクリもあって、後々楽観はできないということを知るのだが・・・。

その時は、うれしいという感覚というより、正しい使い方ではないのだけど、”肩の荷が下りた”。

肩から、心から、体から、重い荷物が下された。そんな感覚を得た。

そもそもなぜ僕はリンパ節の転移を疑われていたのであろうか。ここからは僕の予想なのだけど、答えは結構シンプルで。

もともと僕はお腹が痛くて入院していた。大腸が腫瘍によって圧迫され、消化物の通りが悪くなり、腫瘍周りで大腸菌などが繁殖して炎症を起こしていたと、最初の病院では言われていた。そして大腸で炎症を起こすと、リンパ節も腫れることがある。

炎症によってリンパ節が腫れるということをもちろん医師は理解しているが、悪性腫瘍がある場合はリンパ節の転移を疑うのは自然の流れ。誤診だ、というよりは至極まっとうな可能性の話だったと思う。

炎症でリンパ節が腫れていることもある、ということは僕も手術前から知っていたが、自分のがんに対しての希望的観測をとりやめていた僕に、自分にリンパ節転移が無い可能性なんてことは想像できなかった。青天の霹靂である。

ステージ2のことを連絡した人たちから続々と返信が来た。続々と祝いの言葉が届く。だけど、なんだかしっくりこない。自分自身でも奇妙に思うのだけど、すごく距離を感じる。この距離感は職場復帰の際にさらに感じることになるのだけど、結局当事者と周りの人では、がんに対しての受けとめかたが違うのだろう、と思う。

僕の場合は統計上の生存率が変わってくる大きな話。周りの人にとっては”がんはがん”。そんな印象。考えすぎなのだろうか。

さて、退院の日の朝を迎える。兄が車で病院まで迎えに来てくれる。9時か10時には退院できると聞いていたので、兄には9時前には病院へ着いていてくれとお願いしておいた。もう入院生活には限界がきており、一刻も早く病院から抜け出したかったのだ。

朝7時に起き、退院の準備を進め、看護師さんから忘れ物チェックを受けると、退院許可が9時前にでた。兄からも連絡があり、病院位到着しているという。完璧である。

こうして僕はとりあえずは目の前の命を救ってくれ、1ヶ月の間お世話になった病院を後にすることになった。

最後に、1ヶ月の間窓から眺めていた景色を写真に納め、僕は病室を出た。もうこの部屋には帰って来まいと心に誓い。

 

病院から僕の家に立ち寄り、生活な必要なものを実家へと運ぶ。しばらくは実家で療養生活を送るのだ。

実家に着くと、新品のパソコンが届いていた。病室で注文しておいたのだ。

そう、僕は退院したら僕の好きなことをすることに決めていたから、それには新しいパソコンが必要だった。

これから第二の人生が始まるんだ。
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コラム:末端神経症対策 – ノイロトロピン

本編とは時系列がずれますが、できるだけ早くこのことを書き残したほうがいいと思い立ったので、書きます。

僕は結果的に術後に化学療法をすることになりまして、XELOXを8クール行いました。

そして、FOLFOXやXELOXで使われるオキサリプラチンの副作用で、最も出現しやすい末端神経症も体験しました。

冷たいものに手足が触れると痺れる感覚(急性の末端神経症)。長いこと投薬を続けていると、手の痺れが慢性的に残る末端神経症。(一般に薬をやめれば時間の経過ととも消失するらしいです。)

僕の場合は、唾液がでるときもなんだかキューっとした感覚に見舞われました。さー食事をしよう、ということで脳みその指令で唾液腺が活発に動き始めると、顎の付け根がキューっと締め付けられる感覚でした。

人によってはこの末端神経症が強く出て、化学療法の継続困難になることがあるようです。

で、その末端神経症の対策で僕が実験してみたことがあったので、誰かのお役に立てればと思い書き残しておきます。実際に試される前にくれぐれも医師と相談してくださいね。

この話の背景ですが、そもそも僕は花粉症持ちでありまして、毎年2月から4月まで、抗ヒスタミン系の薬を15年以上服用していました。

とはいえ、薬だけだと完全に花粉症の症状を抑えることはできず、もう少し効果的な対策はないかとここ数年は、抗ヒスタミンの薬以外も試していたのです。

抗ヒスタミン系の薬以外だと、ステロイド系の注射は効果が抜群でした。ただ、通っていた病院の医師が怪しすぎ、その方からステロイドの安全性を説かれても怪しさが拭えなかったので、ステロイド系の注射は2年ほどでやめました。

その後も花粉症対策を物色したどり着いたのが、ノイロトロピンという薬でした。自然成分(とはいえ作り方はちょっと気持ち悪い)でできていて副作用の発現可能性が非常に低いのですが、なぜ花粉症に効くか分からないというちょっと怪しげな薬です。

ただ、とりあえず、僕の花粉症には効果的なようで、この注射と抗ヒスタミン剤の服用で僕の花粉症はほとんど抑えることでき、副作用もないようなのでここ最近は愛用していました。

話を末端神経症対策に戻します。

ちょうど僕がXELOXを始めたのが、スギ花粉が飛び始めようかという1月の中旬。僕は化学療法の医師の許可を得て、2クール目の直前にノイロトロピンの注射をいつもの耳鼻科医から受けました。

ちなみに化学療法の医師は、ノイロトロピンを”注射”することを驚いていました。通常は錠剤を口から服用するようです。

この時、ノイロトロピンに僕はかすかな期待を寄せていました。完全に勘ですが、もしかしたらこのノイロトロピンちゃん、末端神経症にも効くのではないかと。なぜなら、ノイロトロピンは”神経”に作用するものと知っていたからです。

で、結果、効きました。

こればっかりは僕の感覚でしかないので、本当に効果があったのか計測する術はありません。でも、ノイロトロピン無しでむかえた1クール目とノイロトロピン注射後の2クール目を比べた時、2クール目は明らかに末端神経症が和らいでいました。

痺れからの回復も早かったのです。その後、オキサリプラチンの投与前に必ずノイロトロピンの注射を打つようにしました。(ノイロトロピンの効果は2-3週といわれている為です。)

ただ、クールを追うごとに痺れは強くなってきますし、化学療法後の痺れも残りました。なので飽くまで補助という感じです。

また、主観的な感覚での結論で、なんともいえない部分が大きかったので、同じような体験をした方がいないかインターネッツで調べてみました。すると、ある研究を見つけました。

オキサリプラチンの末梢神経障害に対するノイロトロピン錠®の効果検討 

考察を読むと、十分な検証ができていないものの、有用性を示唆している結果となっています。

また、こういった文献もありました。

日本から発信!抗がん薬による痛みへの対応法 オキサリプラチンによる末梢神経障害の発現機序と治療薬の基礎的エビデンス

この文献は、まだ動物実験の段階ではりますが、様々な薬の研究成果がまとめてあります。

その中でノイロトロピンは、急性の末端神経障害に”予防効果”は無いが”治療効果”があること、慢性の末端神経障害には”予防と治療”の両方に効果があることが示唆されています。

と、上記のように様々な研究が行われているみたいですが、僕がウェブで調べる限り結局まだ明確なコンセンサスははでていない、っぽいです。

僕自身も主観的な効果を認めているだけですし、ノイロトロピンの効果は花粉症対策でも個体差がでてしまうようなので、必ずしも全員に効果があるものではないと思います。

ただ、末端神経症で苦しんでいる方に、この情報が何かの役に立てばと思い、ここに記録しておきます。

 

コンセンサスが取れていないものを化学療法の医師が、患者に勧める可能性は低いと思います。

僕の化学療法の医師も「ノイロトロピン?んー、ちょっと調べますね。」といった感じの認識でした。

でも患者側から提案すれば受けてくれる医師もいると思います。

(まあ僕は花粉症の治療という体で勝手に投与し続けたわけですが・・・。)

もし、試される方がいるのであれば、くれぐれも化学療法の医師に相談ください。


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抜糸。いや、抜ホッチキス

2回目の手術が終わり3週間を迎えようとした頃、ようやく退院の目処が立ってきた。当初は大腸がんの手術後10日程度で退院できるはずだったのだけど、やはり手術というのはなにが起きるかわからないもの。

そう考えると、入院案内の連絡が入院前日にくる、という病院側の対応も致し方ないのかなと思う。

入院生活といえば、食事も本格化してきおり、お粥と共に煮魚やマカロニサラダなども出るようになった。お粥というところに不満を感じるが、味は悪くなく、少なからず食事は入院生活の楽しみになった。

当時の日記を振り返ると、この時僕の便は更にグレードアップを果たしていたようで、退院直前にはバナナ色の巻きう○ちが出てきたらしい。インターネッツを駆使して調べるかぎり、最高の状態の便である。(ちなみにこの時は、整腸剤のビオフェルミンRを飲んでいたというのもある。)

流石に術後3週間経つと、体も元気になり、病室が息苦しくなる。なので病院を抜け出し外を散歩する、という芸当もしていた。

娑婆で階段を見つけては、お腹の痛みを感じながらも弱り切った足腰を鍛えるべく、果敢に昇降を繰り返す。術後2週目くらいから始めた非公認リハビリは、免疫力の低下中の僕にとってはリスクがあったが、10キロ以上も減少した体を本来の姿まで取り戻し、一刻も早く”普通の生活”に戻れるようにと焦りを感じていた僕には必要だった。

お腹の傷は痛かったのだけど、お腹を真っ二つに切られた人間が、2週間後には歩行可能になるというところ、人間の体の神秘を感じた。

このお腹の傷、いつごろ抜糸したのか忘れてしまったが、外出をし始める前だったと思う。抜糸というとあたかも糸を抜きそうなイメージだけど実際は、お腹の傷口を塞いでいるホチキスの芯を抜いていくのだ。

もちろん、ホッチキスの芯だけではなく、糸でも縫い付けてあるのであるが、この糸は体の中で溶けていくため抜糸は行わない。抜くのは、分厚い資料を閉じるときに学校の先生が使っていた少し太めのあのホッチキスの芯である。

ちなみにホッチキスは英語ではない。なのでアメリカ人にホッチキスと言っても通じない。ホッチキスは商品を製造していた会社の名前で、英語ではホッチキスのことをステープラーという。

このステープラーという単語がどうしても頭に入らなくて、”あのアレ、こうやるやつ”というジェスチャーでコミュニケーションをとった記憶が何回もある。そして、今でも僕の中では音(おん)的にこの商品は、”ほっち”して”キス”するという点でずっーとホッチキスなのである。

話を戻そう。学校の先生が使っている業務用のホッチキスの芯がお腹に20個くらい突き刺さっている。僕はそれを抜かれるのである。これはペインコントロールするほどの痛みではない分、痛かった。

怖くてよく見ていないが、アシスタントのN医師がペンチのような器具でひとつひとつホッチキスの芯を抜いて行く。抜いて行くたびにチクチクとした痛みを感じる。

丁度裁縫用の針で刺されたような痛みだ。場所によって、針の突き刺さる深度が違うとでもいうのか、痛みの具合が異なる。

N医師は「もう少しですよー」と言いながら抜いている。医師が”もう少し”というときは3割増しくらいで受け取ったほうがいい。「これで最後です。」と言われるまでの長い時間、僕はとにかく白い天井を見上げていた。(”これで最後です”という言葉は額面通りに受け取ってよろしい。医師は嘘はつかないのだ!多分。)

最後の芯が抜かれ自分のお腹の傷をまじまじと見る。傷口は赤く充血し傷口の両側には赤い穴が連なっている。ホッチキスの芯による穴である。このホッチキスの芯の穴の跡も立派に傷として残りそうであった。(実際残っている。)

それよりも衝撃的だったのは、おヘソの形が変形してしまっていることだった。僕はお腹をみぞおちからヘソの下まで真っ二つにきられていた。

そしてヘソの中の説明し難いあのシワが、更におかしなことになっていた。しかも僕の場合、2回同じところを切られているので変形も甚だしいのであろうか。

ヘソの中からシワが膨れ上がっており、でべそともなんとも言えない状態になっていたのであった。(結局腫れが引くとヘソの中にシワはおさまったのだが、引きつっていて以前のような柔らかいモチっとしたヘソではなくなってしまった。)

それにしても人間、安心するとそれに比例するように求めはじめるものである。当初は手術できるだけ幸運と思っていたのに・・・。人間の欲とは際限がないのだ。

 

 

さて、転院から1ヶ月、手術から19日経過したある日、ついに僕の退院が決まった。ただし退院にあたり僕にとって嫌な知らせを聞かされることになった。

以前お話ししたお腹から生えている管であるが、2本を家へお持ち帰りすることになったのだ。

その2本とは胃瘻(いろう)と腸(ちょうろう)で、念のため何かあったときに使えるよう管をぶら下げながら2週間程度日常生活を送ってくださいとのことだ。(2週間後、退院後の初外来で抜去予定ということ。)

今考えれば大したことないのだけれど、その時は、長い入院生活によって束縛された自由がやっと解放・・・・されない!というストレスを強く感じたのを覚えている。

寝返りも打ちづらし、管を医療用テープでお腹に固定しておく必要があり、この医療用テープの粘着によってお腹がかぶれてかゆいのだ。

とはいえ文句を言っても仕方がない。看護師さんから、丁寧に管理方法を教えてもらった。担当の看護師のIさんからは、本来売店で買わないといけない医療用テープやガーゼ等を分けてもらった。感謝である。

退院に向けてちゃくちゃくと準備を進めていると、退院前日の夜に主治医のO医師が手術着のまま僕の病室に姿を現した。手術着は汗で湿っていて、青い手術着がところどころ濃い青になっている。顔もどことなく険しく、まだ手術の余韻が感じられる。

実は、退院前に手術後の経過を両親に説明する約束をしていたのだが、看護師さんの手違い等で約束の時間に現れず、僕の両親があきらめ家に帰宅した頃慌てて病室に駆けつけてくれたのである。

O医師は約束を守れなかったことを謝罪した。手術の経過の説明なので、経過自体を身を以て知っている僕に話をしても仕方がない。

謝罪のあと困った様子を見せていたO医師だが、突然何かを思い出したかのように話をはじめた。

最初は何が起きたか理解できなかった。

それくらい僕にとって衝撃的なニュースが彼の口から飛び出したのであった。
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はじめての食事とアレ

十二指腸は穴が空いてもそこを縫って塞ぐことはできない。だから僕には十二指腸を取り去る”十二指腸膵頭切除術”を行う可能性があった。でもそうはならなかった。

なぜか?

穿孔した部分が想定よりも大きくなかったためか、大網(だいもう)という腹膜のひだを穿孔部分にピタッと貼り付けて放置する、という治療で事足りたからなのだ。

大網という細胞によって十二指腸の傷は自然治癒するらしい。ただし、お腹の中を安静にして置かないといけない為、入院は長引くことになりそうだった。こういう時、看護師さんや医師からは期間の目処を聞くことはない。期待させると落胆も大きいからだろう。

それにしても最初のがんの手術が終わった後、1ヶ月ぶりのご飯が眼前に迫っていたこともあり、入院だけではなく食事制限も長引くというのは僕には酷。

最初の手術前までは緊張感もあったためか、食事をとらないことに対する苦しさはほとんど感じなかったのだが、2回目の手術後は、自分の中に芽生えてしまった食欲との戦いであった。

術後から3日目くらいは、腸ろうから直接アップルジュースを小腸に流し込むという、本人からしたらどうでも良い食事スタイル。それも普通の点滴のように点滴台にぶら下げられていたので、しばらくはアップルジュースだということにすら気づかなかったくらいだ。

4日目あたりからジュースを口から摂取することが許された。しかし、口から200mlばかりの液体を流し込んでも僕の食欲は満たされるわけもない。

なので、定期的に訪れるN医師の問診が毎日待ち遠しかった。今度こそはN医師から食事の可能性などを聞けるかもしれない!と期待していたからだ。その分落胆も大きいのだけど。

特に落胆が大きかったのは、術後7日目に起きた出来事。N医師から、「夕方の胃カメラでの検査をしてみて、その結果次第ではジュース以外も考えますので」と言われた僕は、頭の中ではその日の夜にでもモノが食べられる妄想をいだいてしまったのである。

が、結局胃カメラの結果を主治医のO医師と話すのに時間がかかったためか、土日を挟んだためか、経過は順調ではなかったのか、その日の晩も次の日の朝も食べ物が与えられることはなかった。

人参を一瞬みせられてお預けを食うことほど悲しいことはない。そんな僕の悲しい雰囲気を察してか、N医師はラコールを復活してくれた。流動食ではあるが、僕はラコールが大好きなので幾分は救われた。

結局、食べ物が僕に提供されるまで12日を要することとなった。

初めての食事が提供される日、重湯が提供されることは前日の晩から聞いていたので、その日はワクワクしながら昼ごはんの配膳を待った。(朝食の注文時間には間に合わなかったらしい)

重湯自体が初めての経験だったし、1ヶ月半もの間食事を口にしていない僕の体がどう反応するのかなど、脳みそが好奇心で満たされていた。

12時を過ぎた頃であろうか、遂に僕の前に、白い液体 x 2、オレンジ色の液体、肌色の液体、茶色の液体、透明で少し濁った液体が姿を現した。全て液体である。

白い液体は重湯と豆乳、オレンジ色の液体は人参のスープ、肌色の液体はミルクティー、茶色の液体はほうじ茶である、透明で濁った液体はアップルジュース。

ほうじ茶、ミルクティー、豆乳が同じお盆にのっかているところ、ほうじ茶ラテか!と言いたくなる。流体物だけでなんとかカロリーをあげようとした結果なのだろう。

重湯はただのお湯である。味はない。しかし1ヶ月半ぶりのでんぷんの粘り気を口の中で感じる。そして人参スープは甘さの中に久々の塩気を感じる。ミルクティーの優しさが胃腸にしみる。僕の体はもうビンビンである。

ただ、当初の感動はすぐに過去の思い出となった。僕は完食前に既にこの液体たちに飽きを感じたのである。体はもっとくれもっとくれ、状態だ。なるほど、人間の欲望というものはそれこそ際限がないのだな、と改めて感じた。

この日を境に、N医師の判断で、僕の期待を若干下回るくらいの食事が日を追うごとにレベルアップして提供され続けることになった。(一見ネガティブな文体だけどそれなりにポジティブなことを言っています。)

廊下で歩行練習していると、お盆を乗せた配膳車とすれ違うことがあるので、他の人はもっと美味しそうなものを食べているのを僕は知っていた。それこそ白米に焼き魚など、町の定食レベルのものまである。

そう、大腸がんの患者さんは意外と食事の制限がない。

大腸は、胃でドロドロに消化された液体物の水分を吸うという役割なので、どんな固形物を食べても結局胃でドロドロになるのであまり食べ物に関する制限はないのである。(食物繊維をとりすぎたり、そもそもの食べ過ぎなどはもちろん気をつけたほうがいいのだけど)

しかし、十二指腸を”ヤっている”僕は、その他大腸がんの患者さんと同じ食事にありつけることはなく。結局退院まで銀シャリを食べることはなかったのだ。なんだか物足りない病院食であった。

病院食にはもう一つ思い出がある。僕は思い出したのだ、アレの本当の色を。はじめての食事をした次の日の朝。はじめての便がでたのである。まだ細い筒状であったのだが、それはそれは綺麗な黄土色の便がでた。黄色、いや黄金といっても言い過ぎではないくらい綺麗な色をしていた。

僕はたまげた。そう、便というのはもともと黄土色なのだけど、そのことを長いこと忘れていた。長い間大腸がんに侵食されていた僕の大腸は、焦げ茶色で、時には真っ黒で、筒状を為さない、ドロ状の何かが排出されていた。(思い返せば、少なくとも3年前には便の異常事態がはじまっていた*)

この黄土色の筒状の便を見た時僕は、”ああ、大腸がんは僕の体からいなくなったんだな”と改めて思った。

――

*蛇足甚だしくかつ汚い話なのだけど、少なくとも3年は、と言い切れるのには理由がある。もともと僕は自分の便を確認する癖を持っている人間であった。(と言っても徐々に変化していった便の異常には気づけなかった。)

そして丁度大腸がん発見の3年前、僕は海外に長期滞在していた。そしてそこの滞在先の水洗便器の形が非常に変わっていた。お尻の穴の真下に水がなく、代わりに平らな受けがあり、前方に水が溜まっている形をしていた。

つまり便を排出すると平らな部分に便がたまり、水を流して初めて前方の水たまりへと流されて行く。

その便器の特殊な機構によって、そもそも便を確認する癖がある僕は、出来立てのう○ちを数ヶ月間まじまじ観察する機会に恵まれていたのであった。なので、3年前から便の形が筒状でなく、泥状で、焦げ茶色をしていたことを断言できる。

うーん、堂々と言うことでもないなあ。

――
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腹から延びる管

ICU(集中治療室)、そこはまるで嵐の様であった。

手術後、ICUで一晩過ごした僕。暗い部屋の中、朦朧ととした意識の中、でも周りには殺伐とした空気を感じていた。

今思い返すICUのイメージは、嵐の中という言葉がぴったりと合う。

そんな状況下にいたということもあり、ぐっすり眠れるわけはなく、僕は何度か目を覚ましていた。

今回も夜の間看護師さんは何度も僕の背中にクッションを入れ、体の向きを定期的に変えてくれていた。

体は動かないのだけど、やたらと右の肩が痛い。酷い肩こりといった感じ。それを看護師さんに訴えると、すぐに湿布を貼ってくれた。

大昔、サッカーをしていた僕、その時湿布にはお世話になっていたものの、患部を冷やすためだけの文字通り”冷やかし”としか思っていなかったので、看護師さんの対応に落胆したが、それは僕の認識違い。

貼ってくれた湿布は鎮痛効果があるらしく、肩の痛みは湿布を貼ってしばらくすると消え去った。

朝になり、明るくなるのと平行して、僕も意識もはっきりし始めた。朝、看護師さんが僕の体につけられていた器具を外しに来た。

「あら、これ動いてないかったわね。」と看護師さんが呟いた。首をくの字に曲げて、看護師さんの手元に目をやると、そこには足に取り付けられた機械がった。マッサージチェアの足を揉みほぐす部分に似ている器具である。

この器具は、血液が固まらないように足をマッサージし続ける機械であり、確かに最初の手術では一晩中仕事をしてくれていた。しかし、今回は足にマッサージを受けている感触はなかったのである。

看護師さんは何事もなかったっかのように、そのまま器具を外し、片付けた。

なんと、僕は医療ミスを目撃してしまったのである。

とはいえ、医療ミスの走りを目の当たりにした僕だが、意識はすぐに違うところへ向かった。暗い時には気づかなかったのだけど、なんだか体の周りに袋が置いてある。

なんだか見慣れないジップロックのような袋が体の左右に置かれている。これは一体、、、

器具の片付けが一通り終わると、看護師さんから「歩行練習も兼ねて歯磨きをしましょう。」と声をかけられ看護師さんの補助をもらいながらベットから立ち上がる。

相変わらず、腹筋が役立たずになっていて辛い。

腰をベットにかけるところまでいき、やっと体の周りにまとわりついていた袋の正体の全貌が見えた。どうやら僕の体の中から、6つの管が延びているらしい。

看護師さんがその6つの袋を点滴台と僕の首にそれぞれ引っ掛けると、さあ、どうぞと言わんばかりに僕を地上へと引っ張り出そうとする。腹筋が痛いのと、正体不明の袋を体からぶら下げているのを知った僕は、不安から少し不機嫌になったまま、48時間ぶりくらいに自らの足で地上へと降り立つ。

前回の手術時より、首からぶら下げている袋の重みと点滴台にぶら下げている袋たちのアンバランスさが、足取りを重くさせ、腹筋に”くる”。

洗面台まで、3メートル強の距離だったが、歯磨きができるような状態で洗面台の前に立つことはできず、歯ブラシで歯を一通り撫でると僕はすぐにベッドへと戻った。

このお腹から出ていた管たち。脇腹から4つ、胃と腸から2つ延びているのであるが、僕もいまだに完全に理解したわけではないが役割をここで説明おく。

脇腹から延びている4つの袋は、お腹の中の具合を見るために使用していらしい。定期的に袋の様子を見にきていた医師の独り言を聞くに、横隔膜下窩(か)、ダグラス窩(か)、うんぬんと言っていた。どうやらお腹にある腹腔の名前であるらしく、もしそこに異常があると、この袋に何かが流れ出るらしい。医師たちはその液体の有無を確認し、僕のお腹の中の状態を把握していたようだ。

さらに胃と腸からでていた2本の管は、それぞれ胃瘻(いろう)と腸瘻(ちょうろう)というものであった。

通常、胃瘻は口から食事が取れない患者に対して、胃に管を通し、直接栄養を胃に送り込むために使われる。腸ろうも然り、胃から栄養を送るのにリスクがある場合、小腸に直接栄養を送る際に取り付けられる管である。

上記が通常の使い方なのだが、胃瘻に関して、僕の場合は少し使い方が違った。医師は胃から小腸へモノが流れないようにしたのである。つまり喉を通った全てのモノが胃から外に排出されるように細工されていた。十二指腸の手術を行ったばかりなので刺激を与えないようにそのような措置を取ったよだうだ。

と、いう仕組みではあったものの、その時は知る由もなく。

手術後、なんだか自分の体から緑黄色の液体が点滴台の下にある大きな袋に大量に流れ出ていて気味が悪いと思っていたのが、僕の飲んだ緑茶が流れ出ていただけ、と気づくのに少しだけ時間がかかった。

さて、話を戻そう。

2回目の手術は、このお腹の管が頭を悩ませた。

もちろんお腹の傷は痛いし、麻薬みたいな痛み止めを打ってもらって、”うーうー”うなっていたのだけど、術後4日目には痛み止めがなくても問題なくなった。(痛いのは痛いのだけど。)

お腹の痛みとは違う面で、お腹の管には嫌なポイントが3つある。

ひとつはそのビジュアルである。お腹に穴が空いていて、そこから管が延びている。しかも6本。本人からすれば落ち着かいし、病人感が増す。お腹から管が延びている様を見ることも抵抗があるのだ。

ふたつめは、寝返りが打てないこと。脇腹にも管が通っているので、横を向くと脇に管の違和感を感じて落ち着かない。僕の場合は左右どちらを向いても、管の魔の手から逃れることはできなかったので、しばらく常に正面で寝ざるを得なかった。ただでさえ、自由に動き回れないのにベットの上ですら動きを制限されるのは厳しい。

最後に、歩行練習のし辛さである。前述しているけど、6本の管を点滴台と首にぶら下げて歩くのは辛い。ただでさえ辛い歩行練習をより億劫にさせるのである。

つまり、物理的な痛みとは違って、精神的な辛さがお腹の管にはある。神経質な僕に取ってこの状況は辛かった。

当時つけていた日記を読み返すと、どうやら術後3日目に左横隔膜下窩、4日目に右横隔膜下窩、5日目にダグラス窩と3本の管が抜けたらしい。そこには、3本抜けたことで首から管をぶら下げることもなくなり、歩行練習に対するストレスの軽減ができたので喜んでいる様が記録されていた。

記憶を辿ると4本目もほどなく抜けたと思う。しかし胃瘻と腸瘻の2本に関しては、1ヶ月半もの間装着し続けることになった。これは後述することとしよう。

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最後に、体験談としてお腹から管が抜ける感覚とその後をここに記しておく。

胃瘻と腸瘻に関してはほとんど何も感じないが、横隔膜下窩やダグラス窩の管を抜くときは変な感覚がある時がある。(無感覚のときもあるのだ。)

医師も「はいー変な感じしますよー。」といって管を引き抜く。そしてお腹の中でミミズが動いているような感覚と、管でお腹の中を吸引されているような感覚がある。すこしだけ痛い。

管が抜けた後は、ちっちゃい傷口が皮膚に残りそこにガーゼを当てていれば2日ほどで穴はふさがれる。ただ僕の場合残念ながら傷跡は少し残ってしまった。

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緊急手術!

病室へ戻り、主治医のアシスタントであるN医師から今の十二指腸の状態を聞いた。

なるほど、謎の青色の便の正体も分かった気がする。青色の便の正体はおそらく十二指腸から流れ出ていた血である。大腸を通っていく間に赤色の色素が抜け、黒に近い青色になったのだろう。

さて、原因の究明が終わったところでN医師がようやくその処置に動き出してくれた。

手術の前に、まずは胃の中の圧を抜く、らしい。鼻からカテーテルを挿入し注射器で胃の内容物(といっても何も食べていないのだが)を吸い取る処置だ。

鼻からカテーテルを入れるのは、口から入れるカメラよりも痛そうな印象があった。だが、確か上を向いて「あー」と声を出している間にするするするっとN医師が滑らかに滑り込ませてくれたと記憶している。

カテーテルを挿入し、いつもより大きめの注射器を鼻から外に伸びているほうのカテーテルの先につけ、ゆっくりと引いていく。みるみるうちになにか茶色液体が体の中から引っ張り出される。何も摂取していないはずなのに、一体茶色い液体はどこからでてきたのであろうか。

それと同時に自分が苦しさから解放されていくのがわかった。

数回それを繰り返し、僕は十二指腸に穴が空いているのを忘れるくらい楽になったのであった。お腹の傷の痛みなど気にならないくらい苦しみから解放されたのを覚えている。

処置が終わりしばらくすると、主治医のO医師が2人の見慣れぬ医師を連れて病室へ訪れた。緊急手術を行うということだ。

胃カメラで見た限り、十二指腸には酷い潰瘍が広範囲に渡って広がっているとのこと。その潰瘍が十二指腸に穴を空けたのだという。あまりにも急性であったため、主治医も信じられなかったらしい。手術前の胃カメラにも映らず、そして手術の時にもその兆候はなかったのだ。

十二指腸という部位は縫い合わせることができなく、可能性として、十二指腸と同時に膵臓の一部を取り去る”十二指腸膵頭切除術”を考えているという。

そう、前回の大腸がんの手術でも考慮された、消化器外科で最も難しい手術と言われるアレである。

そしてO医師が連れて来た2名の医師は何を隠そう、膵臓外科のスペシャリストである。O医師は飽くまで大腸の専門で、他の臓器の処置になると手術中バトンタッチをすることは、前回の手術の時にも説明はあった。ただ、実際に他の外科医を紹介されたのは初めてだった。

なので、おそらく僕は十二指腸と膵臓(の一部)を失う可能性が高いんだろうな、そう思い覚悟した。

O医師曰く、十二指腸と膵臓の一部を失っても普段の生活に支障がないと言っていたので、とりあえずその言葉にすがることにした。正直、ここ数日いろいろなことがありすぎて、”どこ切ってもいいからとにかくなんとかしてくれ!”というのが当時の心境だったように思う。

夜8時くらいだろうか。僕はベットに寝たまま、手術室へ運ばれた。

胃の圧が下がり、体が楽になった僕にはなんだか余裕があった。手術室に運ばれると、夜8時になるというのに手術にあたる医師が勢揃いしていた。

「急に夜遅くすみません。」と僕が言うと、医師たちは笑顔で「大丈夫ですよ、これが仕事ですから」と返してくれた。

ここ数日で2回目の手術。最初の手術のときに全身麻酔のすごさを体験している僕にとっては手術に対しての恐れはなかった。悔やまれるのは、あの麻酔に入る10カウントで、できるだけ抵抗を試みればよかった、ということだけだ。僕はまたもや3秒で暗闇の中へ堕ちていったのであった。

「手術終わりましたよー!」

またもや女性の医師の声で起こされる。前回と同様、体がこれでもかというくらい震えている。歯がガチガチと鳴っている。それこそ、ディズニー映画によく登場する吹雪で凍えるキャラクターのように歯がガチガチと鳴っているのだ。

それを見て周りの看護師さんが毛布をかけて温めてくれた。

そして僕は横たわったまま、ベットのガラガラという音とともに手術室を後にした。

ぼんやりとした意識の中、ベットを運んでいる人たちの会話を聞くに、どうやら僕はこのまま集中治療室(ICU)に運ばれるらしい。大腸がんの手術の時は、そのまま病室へ戻されたのだけど、今回の十二指腸の手術はICUに運ばれるらしい。

ICUに着くと僕は、おぼろげながらそこに家族の姿を見た。相変わらず返事もできない状態だったのけど、両親からの話を聞くにどうやら手術は成功し、十二指腸の切除もせずに済んだ、ということらしい。僕はホッとした。
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術後2-4日目:胃変、胃炎、異変

翌日(術後2日目)、呼吸は相変わらず苦しかったが午後にかけて少しづつ改善されてきた。ただそれと反比例するように、次は胃がムカムカしはじめていた。よくある胃の不快感なので、その時はすぐに収まるだろうと思っていた。

歩行訓練は初日と同じく苦痛だったが午前と午後に2回行い、看護師さんから褒められた。歩行訓練は大腸の癒着を防ぎ、また回復が早くなる(はず)、そう信じていたので、すごく痛かったけど頑張れる。

術後3日目、初めて便がでた。青色の泥状の便が少々、オナラと共にお尻の穴から出てきた。

通常お腹の手術後は、看護師さんがおならがでたかどうか気にする。これは大腸がしっかり動いているかの確認のためであるらしい。僕の場合はオナラと共ににいきなり便が出た。なので大腸は非常に元気であると解釈することにした。

3日目の夕方以降、胃のムカムカはただならぬ様相を見せ始める。喉元まで胃の中から何かが逆流しはじめてきたのだった。吐き気に似た症状との戦いが始まった。

ただ実はこの胃のムカムカ、”術前”にも同じ様な症状があった。

僕は前の病院の入院時から胃のムカムカがあり、胃腸薬を処方してもらっていた。それを転院先の現病院でも手術前まで毎日飲んでいたのであった。しかし、なぜか術後にその薬が処方されなくなっていたのだった。

だから僕はその薬があれば治ると踏んだ。

僕は遅番の看護師さんに病状を訴え、薬の処方をお願いした。だが、その訴えは当直の医師によりあっさり却下された、らしい。手術直後ということもあり、どうやら安易に薬を投与したくないようである。

看護師さんは朝まで待って主治医の判断を仰ごうと言ってきたが、時間はまだ夜中の2時、僕の主治医が病院にくるまであと6時間はありそうだった。夜は長い。

その夜、胃のムカムカはキリキリとなり、はっきりとした痛みに変わっていった。そして吐き気とも戦いながらほとんど寝ずに朝を迎えた。時計を見ては朝がくるのを今か今かと待っていた。

4日目、朝7時を回ろうかという時間、想定よりも早い時間、主治医のアシスタントであるN医師が病室に顔をだしてくれた。「ああ、これで生きられる・・・。」そう思った。そう思うくらい苦しい状態に追い込まれていた。

その時には上体が揺れるほどの大きなしゃっくりが時折ではじめていて、しゃっくりによる大きな衝撃がお腹の傷に響き渡りとんでもない苦痛をもたらしていたのである。しゃっくりするたびにお腹の傷を思いっきり左右に引っ張られるような、そんな痛みだった。

N医師は看護師さんからすでに僕の容体を聞いていたのだろう。病院に着いていの一番に駆けつけてくれたらしい。髪型が少し乱れている。

とはいえ、N医師としても何かしらの対処する前に原因を探る必要がある、とのことだった。

なのでやはり安易に薬は処方してくれず、僕はもうその日は苦しみながら過ごす覚悟をした。

Dr. House(人気海外ドラマ)であれば原因の仮説段階で処置をはじめるのであるが、やはり現実は違うのだ。確かに原因がわからないければ対処しようがない。当然である。

早速、原因究明のため、その日の午前中にレントゲンと上腹部CTを撮影した。CTはともかく、レントゲンは立って撮影するため腹筋が全く使えない身としては非常に辛かった。まっすぐ立って息を止めて静止する、という動きがこんなにも辛いとは。

検査後N医師から、お昼頃に主治医とチームと一緒に検査結果を見て対応を考えると聞いた。僕はベッドでうーうーと、うなりながらその報告を待った。

そんな苦しい中でもその日は数回便の排出があった。相変わらず便は青い。なんだか何も食べてないのに排便の回数が多い。そして青色の便というのも気味が悪い。嫌な予感しかさせない。

青い便が出てるんです、と言ってもそのほかの症状に気が回っているのか看護師も医師も相手にしてくれない。

お昼を過ぎて、、、午後2時くらいだったろうか。主治医のO医師からようやく検査結果の所見がでてきた。どうやら、僕の十二指腸に穿孔(穴)がある可能性があり、その穴から胃液などが腹膜にちらばり腹膜炎を発症している可能性があるという。

O医師は「もしかしたら自分が手術中に大腸と十二指腸を剥がす際、穴を開けてしまったかもしれない。気をつけていたからそれはないと思うんだけど・・・。とりあえず一回胃カメラで状態を見てみて、治療方針を決めましょう。」と話があった。

確かにO医師が手術中に穴を開けてしまっていたら医療ミスになるのだと思うが、ここで正直に自分に非がある可能性を認めるのはなかなかできないことだとその時感心した。僕は逆にO医師を信頼できた。ミスは誰にでもあるのだ。そんなことよりもうとりあえず早く治してくれ、そう思った。

胃カメラや大腸内視鏡は、変な言い方だけど人気のある検査なので、緊急とはいえ当日の検査にはなかなか入れてもらえない。

時を刻むごとに容態が悪くなっていく僕の体。それから更に2時間ほど待機し、夕方、やっとのことで胃カメラに呼ばれた。

もうその時には熱も上がってきてしまい苦しすぎて体を起こす気力もない。胃カメラの部屋の前でベットに横たわりながら僕はいまかいまかと順番を待った。

いよいよ胃カメラの順番が来たらしい、僕はキャスター付きのベットのまま部屋に運ばれた。検査室にはN医師もいた。

胃カメラはこれで2回目。1週間程前に行なった最初の胃カメラは、鎮静剤の効力により検査中の記憶がないのであるが、この時は違った。断片的に覚えている。

真夜中のバーのように薄暗い部屋の中、検査医師が僕の喉に胃カメラを滑りこませる。その医師とN医師は僕のモニターをじっと見ている。時折喉に何かがつっかかる感触があった。我慢できるが痛いのは痛い。

N医師が携帯電話を持って、僕の視界から消えた。部屋の奥の方で誰かに何かを報告しているようであった。相手はおそらく主治医であろう。

そうこの時、検査室にいた僕以外の人々は十二指腸に穴が空いた原因を突き止めていた。

彼らが手術前に胃カメラで見た僕のピンク色の十二指腸は、今や広範囲に渡り潰瘍に侵食されていたのであった。
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術後1日目:息ができない!

手術が終わった次の日の午前中、僕の鼻には酸素を送り込むチューブが装着されていて、いかにも重病人という感じであったが、お腹の痛み以外は概ね体調は良かった。

最近は手術が終わるとすぐに歩行訓練を行うらしいということは事前情報として仕入れていた。そして開腹手術によりお腹が真っ二つに割れている僕も例外ではない。

なぜ歩行を早く始めるかというと、歩いて体を動かすことで血栓や癒着などができにくくなるからであるらしい。

血栓は一時的なものとしても、臓器の癒着は一生ものである。お腹を一旦開いて外気に臓器が触れると、どうしても臓器同士が癒着してしまうらしい。

腹腔鏡手術では外気に触れる箇所が限定的なため、問題は起こりづらいらしいけど、僕は思いっきりお腹を開門しているわけで。

そして大腸が他の臓器と癒着を起こし、何かの拍子に腸がつっぱたり圧迫されたりするとそれが原因で腸閉塞になる可能性があるという。何かの拍子、ということなのでいつ起きるか分からないのだ。

生涯腸閉塞のリスクがつきまとうというのが僕としてはすごく嫌だったので、できるだけ歩いて、癒着を防ぎそのリスクを少しでも下げたかった。

例えば楽しいハワイ旅行の最中にでも腸閉塞になったら、なんてのは今後絶対に避けなければならないのである。想像するだけで恐ろしい。

なので僕のモチベーションは高い。

とはいえ、お腹の痛みから察するにこの状態で動くのは正気の沙汰ではないことは明白だった。(ちなみにこの時点で僕はまだお腹の傷を見れていない。なぜなら怖いからである。)

少し動いて見てわかったことだけど、皮膚の下にある腹筋ももれなく真っ二つに切られているため、腹筋が全く機能しない。いや、機能するのだがとんでもなく痛い。なので、ベットから上体を起こすだけでも至難の技であった。

ベットの手すりにしがみ付きながら看護師さんに支えてもらい、上体の角度をベッドから垂直に近づけるたびにメリメリメリっとでも言うようなお腹の叫びを気合いで抑えつつ、徐々に体を起こしていく。

やっとのことでベットの脇に腰をかけるところまでなんとか体を起こす。ただ、腰を掛けている状態が実は一番しんどい。強制的に腹筋で上体を支えることになるので、長く座っていられない。

体をくの字に曲げながら地上に足を下ろし、点滴スタンドを支えにしながら、部屋の外の廊下を歩いた。ただ腹筋は足を上げるのにも使う筋肉。痛みで足はほとんどあげることができない。力士のすり足スタイルだ。

一歩一歩、歩を進めるたびにお腹に激痛が走る。往復10メートル、その日はそれが限界だった。

痛み止めをしていてこの激痛である。痛み止めがきれた時のことを考えると恐ろしい。

腹筋の偉大さに気付かされベットに帰ってきた僕は、痛みでテレビや携帯電話を見る余裕すらなく、地球の重力に身を任せ再び眠りについた。その時できる最善の策であった。

——

ちなみに術後腸閉塞の件なのだが、例えば北里大学病院では術後腸閉塞を専門に見ている科があり、必要があれば腹腔鏡で癒着をとるという。なのでいざとなればそういう病院に転がり込めばいいだけなので、そんなに心配することでもなかった。

——

さて、その日の午後におかしなことが起きた。午後目を覚ますと鼻のチューブが外された。しかし、しばらくするとなんだか息苦しい。

自分が神経質になりすぎているのか、それとも何か体に異変が起こっているのかわからなかったのだが、看護師さんに頼んで再度鼻のチューブ付けてもらい酸素を送り込んでもらった。

そして夕方に再び取り外されたのだけど、やはり取り外されるとどうも息がしずらい。

その後深夜にかけて、遅番の看護師さんに息苦しさを訴えても、酸素濃度の計測で99%近くあったので、まったく相手にしてもらえない。

“術後はいろいろな痛みや変調を患者は訴えてくるもの”と、明らかに切って落とされている、そういう印象をうけた。

でも当の本人は本当に息がしづらくて苦しいのである。これは嘘ではない。

夜の就寝時間になってもこの息苦しさはおさまらず、シーツを力一杯掴み悶えていた。もうこのまま息できなくなって死んでしまうのではないかと本気で思うほどになった。

呼び出しベルを押しては、看護師に息苦しさを訴えつづけ、やっとやっとその重い腰を上げてくれた。彼女は紙袋を僕に渡して、紙袋を口につけてその中で息をしなさいと言ってきた。

彼女の読みでは、どうやら僕は過換気に陥っているらしい。パニックや不安から呼吸が激しくなり呼吸ができないと錯覚するアレである。

彼女の言う通りにすると、確かに紙袋の中でしばらく息をしていると少し症状が落ち着いてきた。完全に治ったわけではないが、紙袋の中での呼吸を幾度も繰り返し、なんとか眠りについた。

こんな簡単な解決方法があるのであればもっと前に言ってよー、と思った。時計は夜中3時を回っていたのである。

ただ、術後の変調はこの後も形を変え現れるのであった。悪夢はこれからである。
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手術と悪夢

「はい!手術終わりましたよー!」

女性の元気な声で僕は起こされた。

手術前の最後の記憶は、自分が3秒まで数えたところだった。気がつくと手術は終わっていた。

ただ一瞬で手術後までタイムスリップしたかと言えば少し違くて、ぐっすり眠った感じに近い。一瞬ではなくて、数時間経過したんだろうなという感覚は残っていた。

手術が終わって最初に気づいたこと。なんだか目の周りがカピカピで気持ち悪い。うっかりコンタクトレンズをつけたまま眠ってしまうと起きた時に大きな目やにができる事があるが、それよりも強力な目やにが目の周りを覆っている感覚がある。手術中涙を流していたのだろうか。

そして寒い。寒すぎて体の震えが止まらない。震え方も尋常ではなく、悪霊に取り憑かれたかのごとく体を震わせてる。丘にあげられた魚のようでもあった。

それを見て、周りの医師が暖かい毛布のようなものを上からかぶせてくれたが、体が温まるのにしばらく時間がかかった。

僕は手術後、ベッドに寝かされたまま、自分の病室へと運ばれた。意識はまだぼーっとしていた。

ただ、一つ気になる事があった。病室へ入るなり僕は声を絞り出して、僕を運んでくれた看護師さんにこう聞いた。

「今何時ですか?」

看護師さんは12時すぎだと答えた。僕は心の中で、ため息とともに「終わった」と呟き、落胆した。

なぜなら手術時間は当初5時間を想定されていたにも関わらず、手術は3時間程度で終わってしまっていたのだ。僕はこれは何かあったに違いない。そう思った。

お腹を開けてみて手術をせずにまたお腹を閉じた可能性を考えたのであった。

そして、”何かあった”という僕の予想は当たっていた。ただ事態は悪い方向ではなく、良い方向に転がっていた。

手術は成功し、大腸がんの十二指腸への浸潤も無かった、のである。

しばらくし病室へ入ってきた家族からそのことをはっきりと聞いた。ぼんやりとした頭の中に光が照らされたようだった。

僕は安心して、そのまま眠りについた。

——

もう少しだけ手術の詳細を話そう。その後主治医に聞いたところによると、手術が短い時間で終わったのは、どうやら十二指腸を切除する手術がなくなったからであった。結局のところ大腸がんによって肥大していた大腸が、十二指腸に接していただけで、手術ではそこをぺりぺりっと剥がす作業のみであったらしい。

まだリンパ節や肺への転移は疑われているので、諸手を挙げて喜ぶことはできないが、がんになってからというものの事態がほとんどいつも悪い方向へ転がっていく中、僕にとっては本当に良いニュースだった。

——

手術の終わった日、僕は当然ベットで寝たきり。まだ麻酔が完全に抜けていないのであろう。夢うつつの状態でベットに仰向けになるしかない。そんな状態ではあったのだが、看護師さんは本当にすごいなと思い知った日であった。

術後、寝たきりの患者の床ずれと血栓の予防、傷口の包帯の交換、痛み止めの交換、汗拭きなどなど、昼夜徹して看護師さんが僕の身の回りの世話をテキパキこなす。

圧巻は夜中のシフトである。担当看護師のMさんが他の患者さんの面倒を見ながら、その他の時間ほぼ僕に費やしてくれているんではなかろうかというくらい一人で身の回りの世話をしてくれていた。彼女のおかげで僕は夜中もあの状況で最も快適に過ごせたと思う。

手術直後が最も注意しなければいけない日だから当たり前かもしれない。だけど改めて看護師さんは医師と同等の給与貰って然るべき!と思った出来事であった。

そんなこんなで、あの状況下にしては快適に過ごせた夜だったが、一方で僕はすごく怖い夢を見た。どういう内容か覚えてはいないんだけど、怒りの感情が突如沸いてきて、目を覚ましたのだった。目を覚ました後も怒りは収まらない。初めての経験だった。

大学教授の山口先生の著書、”大学教授がガンになってわかったこと”にも似たような体験談が書かれている。恐らく初めて体にメスを入れられ、臓器を直接触られ切り刻まれた体にはすごく負荷がかかっていて、体が悲鳴をあげていたんだろう、僕はそう思っている。

手術後、涙で目の周りがカピカピになっていたのも、術中に体が泣いていたからかもしれない。

しかし実は悪夢はこれで終わりではなかったのだ。

体の叫びは夢だけで終わらず、その後現実のものとなり僕に降りかかってくることになるのであった。
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