初めての全身麻酔による手術。でも特段緊張はしなかった。
多少の不安はある。例えば開腹してみて初めて分かることもあるだろう。それが悪いことで手術が続行できなくなるかもしれない、というようなことだ。
でも僕は、自分の力の及ぶ範囲を超えた面倒臭いことがおきると、どうにもならないことはどうにでもなっていいこと、として逆に落ち着くことがある。
もうあとはまな板の上の鯉である。医師に全てを委ねるしかない。
なによりO医師からは、命の危険に晒されるような手術ではないということも聞いていた。
僕としては、CVポートを埋め込んだ時のように、局所麻酔でなまじっか意識ある状態ではないのはすごく大きい。
さて、手術前、麻酔科医のS医師が僕の元に訪ねてきた。歳は50前後だろうか。背はそんなに高くないが、ベテランの風格がありどっしりとした佇まいは少し威圧感を感じさせる。
このS医師が全身麻酔に伴うリスクなど分かりやすく教えてくれた。僕の中で面白かった点が2つあった。1つ目は、確か全身麻酔で口にいれるチューブの話だった。
歯が弱っているとチューブによって、歯が欠けてしまったり抜けたりすることがあるらしい。チューブを口にいれておくだけなのに、なんで歯が欠けるの?と思うでしょ。
実は、手術中、手術台に載っているあなたの体は、手術台とともにかなりダイナミックに回されるのです!!!(とS医師が言っていた。)
ドクターXもとい大門未知子のような手術台を動かさず、一点に立ちながら手術を行われることはまず無いという。
ぐるぐると動かしている最中に、歯が弱いと、口に挿入してあるチューブで歯が欠けてしまったりすることがあるらしい。
そしてもう一つが、全身麻酔により脳梗塞や心筋梗塞などで死亡する可能性の説明。いままでは造影剤等で死亡する可能性を示唆されては、示唆されっぱなしで、じゃあとりあえずサインしてね、というノリであった。でもS医師はちょっとしたフォローをしてくれた。
本当にちょっとしたことなのだけど、僕はこの言葉に大きな納得感を得た。
「脳梗塞などの予期しない反応が出ることがごく稀にあります。ただ、それが起きたとしても、あなたはその時病院の中で一番安全な場所にいると考えてください。」
確かにそうなのである。医師に囲まれているため、何かしらの反応が起きたとしても迅速な対処が可能なのだ。単純なことなのだけど、投げっぱなしジャーマンを仕掛ける医師ばかりで、いままでこういった説明をしてくれた人はいなかったのでありがたかった。
S医師は僕に驚きと安心を与え病室から去っていった。とても心強かった。
手術にあたり、もう一つ大切な準備があった。少し恥ずかしい儀式、そう剃毛である。下の毛を剃るということだ。
手術の前日の朝だったろうか、若い看護師さんが病室に訪ねてきて、これから剃毛をしますと同じフロアの処置室につれていってくれた。
僕はてっきり、剃毛師という渋い肩書きを持つ墓守みたいなじじいが、僕の下の毛を剃ってくれるものかと思ったのだが、そうではなかった。
なんと看護師さんに剃毛されるのである!ということに処置室に入ってから気が付きドギマギする。
硬いベッドの上に寝かされて、ざっとカーテンを閉められる。看護師さんは手袋をはめ、ズボンを泌尿器ぎりぎりまで下ろす。ゼリーのようなものを塗られ、銀色のトレーから取り出したカミソリで、おもむろに毛を剃っていく。そこに恥じらいはない。慣れたものである。
というより、ここで変な恥じらいを出されてはこっちも気まずいので助かった。
意外にもそんなに丁寧に剃るわけではなく、剃り残しをそれなりに残して剃毛終了である。
まあ、全くそういったニュアンスのない儀式であったわけだ。それはそれでなんだか少し物足りない、と言っておこう。
さて、部屋に戻り剃毛した部分を鏡に写して眺めていると(フル○ンになっていたわけではない!)、急に自分のお腹が愛おしくなった。
そう、明日この綺麗なお腹とさよならしないといけない。なにせ開腹手術を行うのだから。
最後に写真でも撮っておくか、そう思ったがすっかり忘れたまま手術に臨んでしまった。今思えば、あれが自分の綺麗なお腹を見た最後であった。
いまだにお腹を見ると少しさみしい気持ちにさせられる。
手術当日、手術は9時スタートと朝早かったが、日課にしていた朝の散歩は行なったと記憶している。
実は僕は朝と夕方の2回、近所を散歩するというのを習慣にしていた。
1日中点滴生活だったのだけど、1日に2回ほど点滴が外される時間帯があったのだ。それが早朝と夕方3時くらいであり、毎回その時間になると僕は病院を抜け出していた。
もともと病院にいるときもできるだけ私服で過ごしていたため、私服で病棟をうろうろしていても看護師に怪しまれることはない。なので、抜け出すのは簡単であった。
なにより体を動かすと気持ちいいし、特に冬の早朝のピリっとした空気は心地がいい。
ちなみに病院で過ごす際、できるだけ私服のままでいるというのは自分のメンタルのためだった。やっぱりパジャマより自分の着たい服を着ていた方が気分がアガる。入院当初から実践していたことなのだ。(以前紹介した高山さんの本にも私服で過ごす旨が書かれている。共感せずにはいられない!)
話を戻そう。僕が散歩から帰ってきてしばらくすると、家族も集まってきた。
病室で家族と団欒していると、時間通りに看護師さんからお呼びがかかった。手術室の準備ができたらしい。得てして病院は待たされるところだと思っていた僕にとっては意外だった。聞くに朝一の手術だったので時間が遅れることはあまりないらしい。
手術着に着替え終わると、看護師さんに連れられ僕は家族とともに手術室のあるフロアへ歩いて向かった。
てっきり、キャスター付きのベッドに横になったままゴロゴロと運ばれていくのかと思いきや、徒歩である。
現実とドラマはやはりちがうんだなーなんて思いながら手術室へ歩を進める。
手術室のフロアに着き、家族とはしばしのお別れである。母親はがんばって、と声をかけてくれた。僕はその声に右手をひらひらふって手術室の方へ向かった。看護師さんがそんな僕を見てニヤっとした。こんなに落ち着いている患者はめずらしいのであろうか。
手術室の前に、まずは少し大きめの部屋に通された。そこで、今から手術を受ける患者さんたちと一緒に簡単な問診と血圧を計測する。意外と患者さんの人数は多かった。
問診が終了し、その部屋の入り口の反対側にある自動ドアをくぐると、ピリッとした緊張感のある空気が流れ込んできた。
目の前の廊下は右から左へと横に伸びていて、そこを医師や看護師が忙しなく動き回っていた。
そしてその横に伸びた廊下の壁に手術室の扉が横一列にいくつも並んでいた。パッとしか見ていないが10部屋ほど並んでいたように思う。
この部屋の中でいくつもの手術が同時に行われているんだな、なんだか自分が大きな機械にこれから組み込まれていくような感覚があった。
僕はその中の手術室の一つに通された。少し肌寒い、それが手術室の最初の印象であった。
まずは手術室の真ん中にある手術台に寝かされる。これから早速麻酔を行なっていくらしい。麻酔科医のS医師と何人かの見慣れない顔の医師や看護師が僕の体に様々な計器をつけ始めた。
「それではこれから硬膜外麻酔を入れていきます。体を横にしましょう。」と医師に言われ、僕は体を横にした。すると目の前にはO医師のアシスタントであるN医師が姿があった。見慣れた顔に少し安心する。
ちなみに硬膜外麻酔とは、背中から脊髄近くの硬膜外腔というところにカテーテルを挿入しそのカテーテルから麻酔をいれるというものらしい。
背中から伸びたカテーテルに麻酔とスイッチを付け、術後、患者の意思で麻酔を痛み止めとして投入することができるようになる。ただ術中はどのような使い方がされているか不明である。
その硬膜外麻酔、なかなか繊細な技術が必要になるらしい。医師に背中をダンゴムシのように丸くまるめてください、と言われ様々な計器や点滴をつけられた体をなんとか不器用に丸くした。背中にまず硬膜外麻酔を付けるための麻酔を打つ。
そして、「動かないでくださいね。」という緊張のこもった声が医師から発せられた。なんだかものすごく痛い事が起きそうで、少しひやひやした。
結果を言えば、この件も含め、医療のペインコントロールは非常に進んでいて、手術前の準備にはほとんど痛みを感じる事がなかった。そしてその後さらに医療はすごいなと思う出来事が起きた。
硬膜外麻酔のカテーテルを背中に差し込み終えると再び仰向けになった。僕は口にマスクをかぶせられる。いわゆる医療用のプラスチックのマスクである。
僕の頭の先のほうから”男性医師”の声が聞こえる。
男性医師「それでは今から10秒数えてくださいね。」
僕「1、2、3・・・・・」
女性医師「はい!手術終わりましたよー!」
そう、手術はあっという間に終わったのである。
(手術の説明や手順の部分で僕の記憶違いがあるかもしれません。なにとぞご了承くださいませ。)