サイトアイコン 泣いてもわめいても解決するものじゃないから結局理性で戦うしかない

はじめての食事とアレ

十二指腸は穴が空いてもそこを縫って塞ぐことはできない。だから僕には十二指腸を取り去る”十二指腸膵頭切除術”を行う可能性があった。でもそうはならなかった。

なぜか?

穿孔した部分が想定よりも大きくなかったためか、大網(だいもう)という腹膜のひだを穿孔部分にピタッと貼り付けて放置する、という治療で事足りたからなのだ。

大網という細胞によって十二指腸の傷は自然治癒するらしい。ただし、お腹の中を安静にして置かないといけない為、入院は長引くことになりそうだった。こういう時、看護師さんや医師からは期間の目処を聞くことはない。期待させると落胆も大きいからだろう。

それにしても最初のがんの手術が終わった後、1ヶ月ぶりのご飯が眼前に迫っていたこともあり、入院だけではなく食事制限も長引くというのは僕には酷。

最初の手術前までは緊張感もあったためか、食事をとらないことに対する苦しさはほとんど感じなかったのだが、2回目の手術後は、自分の中に芽生えてしまった食欲との戦いであった。

術後から3日目くらいは、腸ろうから直接アップルジュースを小腸に流し込むという、本人からしたらどうでも良い食事スタイル。それも普通の点滴のように点滴台にぶら下げられていたので、しばらくはアップルジュースだということにすら気づかなかったくらいだ。

4日目あたりからジュースを口から摂取することが許された。しかし、口から200mlばかりの液体を流し込んでも僕の食欲は満たされるわけもない。

なので、定期的に訪れるN医師の問診が毎日待ち遠しかった。今度こそはN医師から食事の可能性などを聞けるかもしれない!と期待していたからだ。その分落胆も大きいのだけど。

特に落胆が大きかったのは、術後7日目に起きた出来事。N医師から、「夕方の胃カメラでの検査をしてみて、その結果次第ではジュース以外も考えますので」と言われた僕は、頭の中ではその日の夜にでもモノが食べられる妄想をいだいてしまったのである。

が、結局胃カメラの結果を主治医のO医師と話すのに時間がかかったためか、土日を挟んだためか、経過は順調ではなかったのか、その日の晩も次の日の朝も食べ物が与えられることはなかった。

人参を一瞬みせられてお預けを食うことほど悲しいことはない。そんな僕の悲しい雰囲気を察してか、N医師はラコールを復活してくれた。流動食ではあるが、僕はラコールが大好きなので幾分は救われた。

結局、食べ物が僕に提供されるまで12日を要することとなった。

初めての食事が提供される日、重湯が提供されることは前日の晩から聞いていたので、その日はワクワクしながら昼ごはんの配膳を待った。(朝食の注文時間には間に合わなかったらしい)

重湯自体が初めての経験だったし、1ヶ月半もの間食事を口にしていない僕の体がどう反応するのかなど、脳みそが好奇心で満たされていた。

12時を過ぎた頃であろうか、遂に僕の前に、白い液体 x 2、オレンジ色の液体、肌色の液体、茶色の液体、透明で少し濁った液体が姿を現した。全て液体である。

白い液体は重湯と豆乳、オレンジ色の液体は人参のスープ、肌色の液体はミルクティー、茶色の液体はほうじ茶である、透明で濁った液体はアップルジュース。

ほうじ茶、ミルクティー、豆乳が同じお盆にのっかているところ、ほうじ茶ラテか!と言いたくなる。流体物だけでなんとかカロリーをあげようとした結果なのだろう。

重湯はただのお湯である。味はない。しかし1ヶ月半ぶりのでんぷんの粘り気を口の中で感じる。そして人参スープは甘さの中に久々の塩気を感じる。ミルクティーの優しさが胃腸にしみる。僕の体はもうビンビンである。

ただ、当初の感動はすぐに過去の思い出となった。僕は完食前に既にこの液体たちに飽きを感じたのである。体はもっとくれもっとくれ、状態だ。なるほど、人間の欲望というものはそれこそ際限がないのだな、と改めて感じた。

この日を境に、N医師の判断で、僕の期待を若干下回るくらいの食事が日を追うごとにレベルアップして提供され続けることになった。(一見ネガティブな文体だけどそれなりにポジティブなことを言っています。)

廊下で歩行練習していると、お盆を乗せた配膳車とすれ違うことがあるので、他の人はもっと美味しそうなものを食べているのを僕は知っていた。それこそ白米に焼き魚など、町の定食レベルのものまである。

そう、大腸がんの患者さんは意外と食事の制限がない。

大腸は、胃でドロドロに消化された液体物の水分を吸うという役割なので、どんな固形物を食べても結局胃でドロドロになるのであまり食べ物に関する制限はないのである。(食物繊維をとりすぎたり、そもそもの食べ過ぎなどはもちろん気をつけたほうがいいのだけど)

しかし、十二指腸を”ヤっている”僕は、その他大腸がんの患者さんと同じ食事にありつけることはなく。結局退院まで銀シャリを食べることはなかったのだ。なんだか物足りない病院食であった。

病院食にはもう一つ思い出がある。僕は思い出したのだ、アレの本当の色を。はじめての食事をした次の日の朝。はじめての便がでたのである。まだ細い筒状であったのだが、それはそれは綺麗な黄土色の便がでた。黄色、いや黄金といっても言い過ぎではないくらい綺麗な色をしていた。

僕はたまげた。そう、便というのはもともと黄土色なのだけど、そのことを長いこと忘れていた。長い間大腸がんに侵食されていた僕の大腸は、焦げ茶色で、時には真っ黒で、筒状を為さない、ドロ状の何かが排出されていた。(思い返せば、少なくとも3年前には便の異常事態がはじまっていた*)

この黄土色の筒状の便を見た時僕は、”ああ、大腸がんは僕の体からいなくなったんだな”と改めて思った。

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*蛇足甚だしくかつ汚い話なのだけど、少なくとも3年は、と言い切れるのには理由がある。もともと僕は自分の便を確認する癖を持っている人間であった。(と言っても徐々に変化していった便の異常には気づけなかった。)

そして丁度大腸がん発見の3年前、僕は海外に長期滞在していた。そしてそこの滞在先の水洗便器の形が非常に変わっていた。お尻の穴の真下に水がなく、代わりに平らな受けがあり、前方に水が溜まっている形をしていた。

つまり便を排出すると平らな部分に便がたまり、水を流して初めて前方の水たまりへと流されて行く。

その便器の特殊な機構によって、そもそも便を確認する癖がある僕は、出来立てのう○ちを数ヶ月間まじまじ観察する機会に恵まれていたのであった。なので、3年前から便の形が筒状でなく、泥状で、焦げ茶色をしていたことを断言できる。

うーん、堂々と言うことでもないなあ。

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