LINEでメッセージをくれた従姉妹。
いつもの明るいトーンとは打って変わり、LINEのメッセージはシリアスである。それも当然か。
こういう状況なので僕の両親に本来であれば許可をとらないといけないだろうけど、どうしても伝えたいことがあるので、と断りをいれて彼女は僕にメッセージを打ち始めた。
彼女の母親も昨年がんに罹患していたこと。ステージ4であったこと。高齢の両親に代わり、自分でがんに関する情報を集めたこと。良い先生を見つけたこと。そして情報収集の甲斐もあり、抗がん剤治療で母親のがんが寛解したこと。
そして最後に一冊の本を紹介してくれた。
従姉妹からのメッセージに勇気付けられた。がんになっても治る方法はあるらしい、自分の身近な人では初めて聞く話だった。
だけれど、まだがんという現実を受け入れられない僕は紹介された本には手をつけられなかった。
この時点では、がんに立ち向かう決意もまだみなぎっておらず、僕はそのあと人生で一番長い2日間を過ごした。その時はがんについては調べることはやはりあまりできなくて、インターネット上に転がっているどうでもいい記事を眺め気を紛らわせた。ただただ時間だけが過ぎていった。
迎えた10月29日、診断結果告知の日。僕はその日は朝から、恋人が買って来てくれたお守りを握りしめ、東京タワーの見える窓から、青くて少しだけ寂しさのある秋空に向かって祈っていた。最悪でもステージ3で留まっていてくれ、と。
心臓が胸の奥で波打っている。
お昼過ぎ。家族親族合わせて8名程度病棟のロビーにぞろぞろと現れた。元消化器外科の医師である叔父も遠方からかけつけてくれた。
叔父は体が大きい、肩幅も広く、歩きかたもしっかりしている。とても70歳を越えた人間だとは思えないくらい体の芯がしっかりしている人だ。会うのは、20年ぶりくらいだろうか。無礼にもすっかりご無沙汰していた。
叔父は僕に会うなり、僕の覚悟を試すような質問を優しくかつ力強く聞いてきた。どうやら、医師によっては、患者の心情とは関係なく、想定されうる事実を淡々と話すことがあるらしい。時にそれは患者を無下に傷つけてしまう。それを叔父は懸念し、僕の覚悟を試していたようだ。
その時はよくわからなかったのだが、叔父は僕が慢性前立腺炎を患っていることも心配していた。これは後でどういうことかわかることになる。(今後話にでてくるだろう。)
最後に叔父からは、「俺がまず医師から説明を聞いて、そのあと俺が君に伝える、というようにしてもいいんだぞ。」と申し出があったが、やはり自分自身で聞きたいと、断った。そうすると、本当のことが知ることができないかもしれないと思ったから。
叔父との会話が終わり程なく、病室と同じフロアにある会議室へ呼ばれた。
心臓のドキドキが止まらない。会議室までの10メートル、体が宙に浮いているような感覚。
6畳程度の部屋に、12人はいただろうか。僕の家族・親族が8名程度、病院のスタッフが4名程度、互いの肩が触れ合わないくらいのギリギリの距離感は、重苦しい空気をさらに圧迫していた。
狭い部屋には32インチ程度のテレビとテーブル、そしてテーブルの上のパソコンはテレビへと繋がれていた。これからいつもの仕事でのプレゼンが始まるようなセットアップ。
テーブルを挟んで奥に病院サイドのスタッフが座っている。いつもの主治医のYさん、アシスタントのT医師、看護師さん、そして見慣れない医師がもう一名座っている。みな深刻そうな顔をしている。
もうなんかやばそうな雰囲気がびんびんに伝わってくる。笑ってくれとは言わないけど、なんかもう少し雰囲気づくりはできないものだろうか。皆、当事者と同程度の悲壮感に包まれている。
Y医師がいつものボソボソ声よりももう少しはっきりした声で、これまでの検査の経緯と結果を話し始める。そしてついに僕のがんの状況の話に移る。握りしめていたお守りに一層の力が加わる。
僕の希望より少し悪い状況が主治医の口から発せられた。
「ステージ3かステージ4と考えられます。ステージ3だったとしても癌の大きさから手術はできず、抗がん剤治療となります。」
思わず、ふあああ、という声が漏れ出た。声にならない声とはこういうものなのだろう。
一つめ、肺にある2−3の白い影。すごく小さく、がんかどうかわからないが転移している可能性。
二つめ、腫瘍影周りのリンパ節が2つ程度腫れている。リンパ節転移の可能性。
三つめ、腫瘍が大きく、十二指腸にくっついているように見える。十二指腸まで浸潤している可能性。
四つめ、想定されるがんの進行具合から腹膜播種*を起こしている可能性。
*消化器を包んでいる腹膜に種を撒いたようにがんが散らばっている状態。
特に三つめと四つめの可能性が、病院側が手術を躊躇する要因であったように解釈した。十二指腸は切ることができないので、浸潤していたとしてもどうすることもできない。また腹膜播種がある場合も同様で手術は適用しない。それはこの病院の外科医の意見であったらしい。
確かなことはわからないが、”可能性を積み上げると手術はしないほうがいい”、そういう判断だったように聞こえた。
そういえば、今思うと、あの会議に外科医は同席していた記憶がない。主治医は内科医で、その隣の謎の医師は化学療法の医師だったからだ。うーん不思議だ。
その化学療法の医師、メガネをかけ勉強ができそうな顔をしている。歳は30代中盤くらいだろうか。医師としては若いほうだと思う。
その医師が化学療法の説明に入る。まず、腹腔鏡手術で狭窄を起こしている大腸を小腸から切り離し、小腸を人工肛門(ストーマ)につなげ、口から物を食べられるようにするとのこと。僕は、大腸が狭窄していたため入院してから点滴と液体物しか摂取していなかった。さすがに点滴のままだと化学療法に耐えるのは難しいらしい。
そして栄養状態が改善したら、強めの化学療法を入れて、腫瘍を小さくする。これをまず6ヶ月間行う。早ければ3ヶ月間で効果が出るとのことだった。
僕はPS0という体の状態であり、若くてイキがいいので強めの化学療法ができます、ということを強調していた。僕に対する彼なりの気遣いだったのだろう。
一通り化学療法の説明が終わると、主治医がまとめにはいった。セカンドオピニオンももちろん聞いてもいいが、彼は早めに治療方針の合意をしたほうがいいと思っているらしい。がんの想定進行具合から、時間的猶予がないというのが彼の発する言葉の端々から感じて取れた。
僕は最後に、この治療手順を踏めば治るのか、聞いた。医師たちは約束はしなかったが、確率は低くないような答えをしてくれた。ほんのわずかだけど希望が心に触れた気がした。
告知タイムが終わり、フロアのロビーへ家族とともに戻る。僕は、なぜ手術ができないのかやはり納得できず、叔父に質問をぶつけた。
まず、手術は体の侵襲が激しいのでとりあえず体を切って見てみるということはしない、そして厳密に言うと十二指腸をきることはできるが難しい手術になるので手術をしないほうが無難、叔父が教えてくれた。
現場から離れて久しいが叔父の経験上、今テーブルに上がっている治療法がベストである、とのことだった。
そして叔父は僕のがんはステージ4であることを前提に話を始めた。僕の頭にはステージ4の生存率がよぎり、感情が震える。
それを感じたのか叔父は一層力強く話を進めた。覚悟と希望を持たせようとしたのだろう。
今は化学療法が進化している。もし6ヶ月間で効果が現れなくても次の抗がん剤がある。腹膜播種、肺がんに見える影、化学療法が効けば全部消えるから心配するな。
彼の話には少しだけ嘘が入っていた。患者に光を与える、叔父はそういう医師なのだろう。
でもその時は僕はそういうもんなんだと思っていたし、勇気をもらえた。
これが最善の治療法なんだ、きっと大丈夫だ、僕はそう自分に言い聞かせた。
家族が帰った後、僕は看護師さんに主治医のYさんを病室まで呼ぶように頼んだ。そして、彼らの掲示した治療法に合意する旨を伝えた。普段は感情を表に出さない人なのに、顔が本当に少しだけ明るくなった。
「ではすぐにとりかかりましょう。」いままでにないはっきりした口調でそう告げると、足早に病室を後にした。僕には走り去ったようにすら見えた。この人は本当は患者思いの優しい人なんだろう、そう感じた。
その日の夜。僕は2時間の外出許可をもらい恋人と東京タワーに行くことにした。まだ付き合う前に一緒に来たことがある思い出の場所だ。東京タワーには大展望台と、そのさらに上に特別展望台がある。前は大展望台止まりだったので、今日は特別展望台に登ろう、僕はそう言って二人で東京タワーへ向かった。
夜の空気は冷たさを増し、キリっとしていて澄んでいる。入院して1週間ほど、ずっと室内にいたからか、冬がもうすぐそこまで来ているのを敏感に感じ取った。
東京タワーへ向かう途中、今日の昼に医師から伝えられたこと、これからの治療方針のことを彼女に話した。
きっと大丈夫、微笑みながら彼女は僕を励ます。
東京タワーへ着く、しかし特別展望台は工事中で入れなかったので、しぶしぶ前回と同じく大展望台へ上がる。
じゃあ、今度またここに来てその時は特別展望台にあがろう。
彼女の言葉に胸がしめつけられる。
僕は、東京の夜景ばかり見て、あまり彼女の顔を見ることができなかった。
がんに勝たないといけない理由ができた。